第54話 知らないだけで流れていたの

 僕がドアを閉めるのを確認すると黒田は廊下の壁に背をもたせかけ声を落として話し始めた。

「実は実梨ちゃんからもう聞いてたんだ。篠生と友達になったって」

「そ、そうなんだ」

 思わず顔が綻びそうになるが、黒田の声のトーンは僕にそれをさせなかった。

「でね、もし機会があったら篠生にも話しておいてほしいって実梨ちゃんから言われたんだけど、まだなにも聞いてないよね?」

「ああ、なにも」

「実梨ちゃんね、目が悪いんだ」

「うん、それは本人から聞いた。で、今日は眼科なんでしょ?」

 あ、あたしさっき眼科って言ったっけ、と黒田は笑った。けれど、その笑顔からはいつもの底抜けの明るさがこれっぽっちも感じられなかった。

「でね、今日は精密検査を受けるんだって」

「精密検査? 目が悪いって、視力のことじゃないの?」

 僕は思わず語気を強めた。黒田はそんな僕から顔を背け、自分の上履きの先に視線を落とした。

「視力もなんだけど、なんか、病気みたいで……」

 黒田の語尾が震えた。俯く彼女は必死に何かを堪えていた。幼馴染みのこんな表情を目の当たりにするのは初めてだった。

 本来なら僕は朝吹さんの置かれた状況に憤慨するなり悲嘆するなりすべきだっただろう。けれど、幸か不幸か、この時の僕は黒田のあまりにも普段と違う雰囲気に直面したためにむしろ平静さを保つことが出来た。

 黒田はなおも声を震わせた。

「どうしよう……、実梨ちゃんに何かあったら……」

「大丈夫。大丈夫だよきっと」

 断言してみせたつもりだが、僕の声はずいぶん情けなく響いてしまった。

 それもそうだ。ネリの予言する〈絶望の卵〉の到来と、その最悪化の阻止を試みている僕たちのことを知る由もない黒田にとって、僕の言葉は何の根拠もない、まったく無責任な発言のはずだった。

 けれど、黒田は顔を上げると、緊張で強ばっていた頬を少しだけ緩めて目を細めた。

「だよね。大丈夫だよね。うん」

 それは半分は自分に言い聞かせるようであり、つまり祈りの言葉であった。僕も彼女の言葉を受け止めて、深く頷いた。

 黒田は大きく息を吐くと、気を紛らすように話を変えた。

「篠生、何の本借りたの?」

「ああ、図鑑だよ。元素図鑑」

「えっ、あの色がめっちゃキレイなやつでしょ。いいなあ」

 黒田も見たことがあるらしい。言うまでもなく朝吹さんと二人だけの秘密など僕にはまだおこがましい。

 あれキレイだよねえ、そっかあ、と言いながら、黒田はまた顔を伏せた。

「なんかね、実梨ちゃんが最悪の場合もあるからその時はよろしくなんて言うから、あたし怯えちゃって……」

 もはや僕は戸惑ってなどいなかった。目の前の黒田が感じている怯えも、なにより朝吹さんのこれから迎える状況も、全ては僕たちの明日の行動にかかっているのだ。やるしかない。

 僕は黒田の肩にポンと手を置いた。

「なんとかなる。なんとかしてみせるさ。だから安心しなって」

 今度の断言は少しくらい頼もしく聞こえただろうか。

 黒田は潤んだ瞳で僕の目を覗き込み、そして、プハッと吹き出した。

「なにそれ。まるで篠生がなんとか出来るみたいじゃん」

「ああ、出来るさ」

「篠生は正義のヒーローね。実梨ちゃんが友達に選んだだけあるわ」

 その言葉に嫌みは含まれていなかった。黒田は親指で目尻を拭うと肩に乗せられた僕の手をゆっくりと下ろし、代わりに僕の背中をドンと叩いた。

「いてっ」

「でもちょっと安心した。不思議。ほんとにあんたがなんとか出来るかもって気がしてきたよ。だから頑張ってよ篠生マン。愛する実梨姫のためにね」

「愛す……、別にそんなんじゃないって!」

「結果が出るのは明日らしいの。だから祈っててね」

 おそらく明日の夕方、朝吹さんは検査の結果を耳にするのだろう。その時に僕たちの作戦が成功していれば……。いや、なにがなんでも成功させねばならないのだ。

「よし、じゃあ明日のために僕は帰って英気を養うとでもするか」

「はは、篠生マン充電式なんだ」

 僕と黒田は揃って図書室へと戻った。僕はバッグを肩に居眠りしていたツェラに声をかけると再びドアへと向かった。

「ちょっと待って篠生マン」

 カウンターの中から黒田が声をかけた。隣の一年生が安直なネーミングにプッと吹き出すのが見えた。

「なんだい?」

「ほい」

 黒田は何かを僕に放った。しかし、運動神経がゼロの僕のことだ。それはバチンと僕の顔面を直撃してから偶然にも開いた手の中に収まった。

「あーごめんごめん。篠生マンの正体が篠生だってうっかり忘れてたよ」

 黒田が顔の前で手を合わせた。いまさら怒る気も起こらない。

「それ充電の足しにして」

 僕は手の中にある物をしげしげと見詰めた。

「叶映、これって……」

「超レアだから味わって食べてよね」

 それは紛れもなく駅前に出来た人気ドーナツ店のドーナツであった。超レアというのはポケットの中で半分潰れた状態のことも指すらしい。

 もし田村に見つかったら一口くれと懇願されるに決まっている。僕は黒田に礼を言って図書室を出ると、ありもしないはずの視線を避けるようにドーナツをバッグにしまってから下駄箱へと急いだ。

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