第53話 なぜか不本意な接頭辞
慌てたところで今の僕に出来ることは無い。そう分かってはいたけれど、自転車のペダルを踏む僕の足にはどうしようもなく力がこめられた。
公園から学校まではほんの僅かな距離だった。でも、それはずいぶん長く感じられたし、学校に着いてみると僕はどこか遠い異世界に来てしまったかのような錯覚さえ覚えた。
暗く侘しい公園とは正反対に学校は明るく楽しい放課後の真っ最中だった。校門では時間を持て余した者が友人たちと他愛ないおしゃべりに興じ、校庭は部活動に青春時代を費やす生徒たちの声に満ちあふれていた。
こうして一日に二度も学校へやってくるのは初めてだったから、余計に奇妙な感じがしたのかもしれない。
ともあれ僕は自転車を停め、下駄箱で靴を履き替えると、廊下を一直線に図書室へ向かった。
息を弾ませてドアを開けると、そこに朝吹さんの姿は無かった。
はて、今日は図書当番の曜日のはずだがと訝りながらほとんど指定席のようになっているカウンターの正面の机に席を占めた。ふうと溜め息を一つ吐いた。いつも通りツェラが真ん前に座った。
「朝吹さん、いないね」
ツェラの小声に、うん、と僕は簡単に答えた。
たまたまカウンター業務から離れているのかと思ったが、しばらく待ってみても朝吹さんの現れる気配は無い。代わりにカウンターに座っているたぶん一年生と思しき女子に訊ねてみるという手もあったが、そこはこの僕だ。初対面の女子に普通に話しかけるような高等なスキルはあいにく持っていない。
とりあえずもう少し待ってみようと決め、何か本でも読んで不安な気持ちを紛らわそうと思うが、小説は内容が頭に入ってくる気がしない。そうなると選択肢はいつもの図鑑となる。
書棚から取ってきたのは古生物の図鑑だった。掲載されている生物のほとんど全てが既にこの世に存在せず、しかも人類は誰一人としてそれらの生きた姿を見たことがないという意味で図鑑の中ではかなり特異な一冊と言える。
現実逃避というわけではない。しかし、やはり僕は朝吹さんに新たな、それも取り憑いた人間に最悪の不幸をもたらす〈絶望〉が到来するという未来に真っ直ぐ向き合う勇気を持てずにいたのだろう。いまやこの世に存在しない恐竜や海洋生物の想像図を眺め、心を少しでもここから遠くへ遊ばせようと半ば無意識に努めていた。
とはいえ、読書に集中できるはずもない。加えて言うなら前に座ったツェラが目にも明らかにそわそわと落ち着きがない。あっちをキョロキョロこっちをキョロキョロ、僕以外には見えないから良いものの、静粛な図書室にはその挙動がどうにも似つかわしくなく、気になって仕方がないのだ。
心配なのは分かるけど少し落ち着いたらどうだ、と声をかけようと目を上げたところ、カウンターに座る一年生の女子と目が合ってしまった。気のせいかとも思ったが、どうやらさっきから彼女の方でも僕の方をチラチラと見ていたようなのだ。
ん? と思う間に、その一年生がカウンターを出てこちらへ向かって歩いてきた。しまった。僕がさっきから正面を気にしているのはそわそわしているツェラの方で、決して彼女に対する視線ではなかったのだが……。
頭の中で言い訳を考える間に彼女は僕の横に立った。
「あのー、図鑑の鮎川さんですよね?」
「はい? あ、はい。鮎川ですが……」
図鑑のかどうかは分からないが、そう答えると彼女はホッとした表情を見せた。
「良かった。朝吹先輩から本を預かっているので」
「本?」
彼女は一冊の本を僕に差し出した。
はあ、と受け取って見るとそれはポケットサイズの元素図鑑だった。僕が本を受け取った後も彼女はなぜか立ち去りもせずじいっと横に立っているので、なんとなく僕は中身をパラパラとめくってみた。
「おおっ」
思わず声が出てしまった。
その図鑑は元素という難しげな内容にも関わらずものすごく色彩に富んでいた。拡大された元素がこのように鮮やかで美しいものだと僕はこれまでまったく知らなかった。しばし目を奪われ、ページを見入っている僕に満足したように一年生の図書委員は笑顔を作った。
「鮎川さんにお貸ししますだそうです。もしかしたらあげちゃうかもとか言ってましたけど、でもきっと大丈夫だと思います。読んだら本人に返してください」
「本人に? ここの本なら自分で返却するけど」
「あ、それ先輩の私物なので」
そう聞いた瞬間、手の中の本がズシリと重みを増した。用事を済ませてしまうと一年生は足早にカウンターへと戻っていった。
まさか朝吹さんから私物の図鑑を借りることが出来るだなんて……。浮かれた僕は一年生に朝吹さんの所在を訊くのを完全に失念していた。借りた本は家で大切に読むことに決めて丁重にバッグにしまった。
肝心の当人はやはり欠席だろうか。もうちょっとだけ待ってみてそれでも来なかったら今度こそあの一年生に訊ねてみようと思った。実は彼女の言葉の中に少し気になるフレーズも混じっていたのだ。きっと大丈夫、だと。
「ねえ鮎川くん」
思案する僕に声をかけてきたのはツェラだった。
「なんだい?」
「黒田さんが来たよ」
見ればいつの間に入ってきたのか、カウンターで黒田叶映がさっきの一年生と親しげに話していた。またいつぞやのように図書当番の手伝いにでも来たのだろうか。だとすると朝吹さんは今日は来ないという可能性もあるわけだが……。
一年生との会話が一段落付いたところを見計らって僕は席を立っていった。
「おっす。今日は図書当番の代わりかなんか?」
「おお、これは図鑑の鮎川さんではないか」
その二つ名、まさか黒田発ではあるまいな。一年生の手前、僕は露骨なほどに平静を装ってみせたが、黒田は悪びれもせずに言葉を続けた。
「なんか篠生、実梨ちゃんから本借りたんだって? あたしの了解も無しに」
黒田がにやついた。さっそく一年生から聞き出したか。朝吹さんから本を借りるのに黒田の了解が必要だとは知らなかったよ。
「いいだろ別に。ああ、そういえばその朝吹さんは今日は休みかなにか?」
ともあれ本来の問いへと自然に話題を振ることが出来た。
「うん、病院行ってるから」
不意の単語に僕の心臓がトキンと鳴った。
「病院って……」
「ていうか眼科なんだけど」
さすがの黒田も他人のプライベートな話題に気を遣ってか僕にだけ聞こえるくらいに声を潜めた。眼科と聞いて僕は少しだけ安心してしまった。そういえば朝吹さんは前に目が悪いと言っていたっけ。
「そっか。けっこう悪いの?」
うーん、と黒田は思案顔を作った。どういうわけかいつもの気安さがその表情からゆっくりと消えていくように感じた。と思うや黒田は僕の目を真っ直ぐに見た。
「篠生、ちょっと来てくれる?」
黒田は小声のまま手招きして僕を図書室の外へと連れ出した。
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