第52話 確定したその人の名は
「明日……、空白の地……。見えてきました」
「ネリ、それは標的となる人か?」
ネリの呟きに即座に反応したのは田村だった。〈絶望の卵〉に狙われるのは僕か田村に関係のある人だというから、交友関係の広い田村が気を揉むのも無理はなかった。
「誰だ、それは?」
田村が焦れるように問いを重ねた。しばらく目を瞑っていたネリはまぶたを上げるとこう言った。
「その方は女性です。それも武人さまやシーナさんと同じ年齢の」
女性? 僕は少し虚を突かれた。可能性からして田村の野球部関係ではないかと想像していたからだ。無論のこと、それは僕の無責任な想像に過ぎないわけではあるが。
しかし、僕や田村と同じ年齢の女性といって考えられるとすれば……。
次の瞬間、僕たちは同時に同じ名前を口にした。
「叶映……!」
「黒田か!?」
黒田叶映。僕の幼馴染みであり、田村にとっては中学時代に生徒会委員を共に務めた人物。人気ドーナツ店の紙袋で僕らを一杯食わせるなど小憎らしい部分もあるが、どこか憎みきれない女子。そんな黒田叶映が〈絶望〉の標的に……。
言葉を失った僕と田村。しかし、ネリは淡々と言った。
「いえ、あのお方ではありません」
「え、違うの?」
「黒田じゃないのか?」
「違います。先日のお昼の時など黒田さんとは何度か会っています。しかし、あのお方からは予兆は感じられませんでした」
なあんだ、と僕は安堵の溜め息を吐いた。もちろん、その一瞬後には安心している場合ではないと気が付いた。
「叶映じゃないとすると、他には……?」
「うーん……」
田村が首を傾げた。
僕よりはずっと交友関係の広い田村だ。同学年の女子の友人だってたくさんいるとは思うが、その誰もがいまいち決定打に欠けるといった表情だ。
「シーナ、誰かいないか?」
「え、僕?」
思わず自分で自分の顔を指差してしまった。
「はい、申し訳ないのですが、わたくしも武人さまのご友人ではない気がするのです。シーナさん、どなたか女性のご友人などは……」
残念ながらネリの問いかけに返す答えはない。
「女子の友達なんて……、僕にいるわけ……」
そう言いかけて、あ、と僕の心になにかが浮かんだ。
それはとても嬉しい記憶のような。けれど、いまここでそれを思い返してしまったらすごく大切なものが一瞬にしてひっくり返ってしまうような、出来ることなら触れたくないものだった。
けれど、僕にはどうすることも出来なかった。
昨日の図書室での光景がフラッシュバックした。と同時に、底の知れない恐怖が僕の背にすうっと冷たい刃を刺した。
「どうしたシーナ?」
田村の声がなぜか遠く聞こえる。
「シーナさん?」
ネリという名の〈絶望〉が僕の顔を下から覗き込む。
思わず僕は目を逸らした。するとそこには僕の〈絶望〉が今にも泣き出しそうなほどに不安そうな目をして佇んでいた。幸か不幸か、僕は自分の想像を否定して無かったことにするほど傲慢でも臆病でもなかった。
僕はどうしてもその名を口にしなければならなかった。
「朝吹さん……」
その名を聞いたネリが深く息を吐いた。
「シーナさん。そのお方の名前、もう一度おっしゃっていただけますか?」
「朝吹さんだよ……。朝吹実梨さん……」
ネリは目を閉じた。生ぬるい風が吹いてその髪を気怠く揺らした。とても長く感じる沈黙の後、ネリは再びその目を開いた。
「間違いありません。明日〈絶望〉に襲われるのは朝吹実梨さん、その方です」
一瞬、天と地が逆転し、公園全体が海の底に沈んだような感覚に襲われた。暗く、冷たく、重苦しい世界が僕の全身を包み込んだ。首を伸ばして喘ぐように息を吐き出すと、ようやく世界は分厚い雲に覆われた公園の風景を取り戻した。
「朝吹さんて、あの黒田と同じクラスの子だろ?」
田村の言う声が耳に届いた。
「あの子とシーナが友達だったとはなあ。知らなかったわ」
深く息を吸い込むと。僕は少しだけ落ち着いた。田村の素朴な感心が僕の耳を赤くした。
無論、照れてなどいる場合ではなかった。
僕は〈絶望〉の標的が妹の小楢ではないようだと知ってから、狙われるのは田村の関係者だろうとどこかで思い込んでいた。まずはその薄情な心性を恥ずべきである。
まして、一昨日のこと、僕が朝吹さんに迂闊にも友達になってくださいなどと言ってしまったことが、こうして〈絶望〉を彼女に呼び寄せてしまう結果になってしまったのだ。なんという愚かさだろうか。
「タケちゃん、悪いな」
頭を下げた僕を田村は驚いたような目で見返した。
「なんでシーナが謝るんだよ? 狙われてるのはシーナの友達だろ?」
言われてみればそれもそうだ。どうやら気が動転しているようだ。僕はもう一度深呼吸をした。
まだだ。まだ勝負は始まってすらいない。
「ねえ、タケちゃん。明日、絶対に勝つよ」
僕は田村に左手を差し出した。
「ああ、任しとけ」
くさい台詞に芝居じみた素振り。けれど僕はそんなことはちっとも気にならなかった。痛いくらいに強く握り返されたその田村の大きな左手は自信に満ちあふれていた。
そうだ、と僕はバッグからスマホを取り出した。まだ図書室が開いている時刻だ。
「ちょっと学校寄っていっていいかな? 朝吹さんの様子を確認しておきたくて」
ネリの目に不安が浮かんだ。
「シーナさん。でもこのことはまだご本人には伝えない方が……」
「分かってる。大丈夫だよ。本人には言わない。僕たちは僕たちに出来ることをするだけだからね」
そう言うとネリは表情を緩めた。
よし、ツェラ行こう、と言うと、それまでの思い空気にずっと押し黙っていたツェラが待ってましたとばかりに笑顔を弾けさせた。
「おー! 朝吹さんを守るぞ! おー!」
この自分の〈絶望〉のノーテンキさにこれまで何度助けられてきただろうか。
僕は公園のフェンスをくぐり、自転車に跨がった。
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