第50話 故郷はフェンスの先に

 鳩が豆鉄砲を食らったときの顔を実際に目撃した人がこの世に何人いるのか知らないが、田村の言葉を聞いた瞬間のネリはまさにそんな顔をしていた。

 僕もまた田村の言わんとすることの意味が即座に理解出来ず、田村とネリとを交互に見ていた。するとネリがアッと声を上げた。

「つまり……、ホームランですわね!」

 田村は不敵な笑みを浮かべた。

「ネリ、いけるか?」

「武人さま、もちろんです」

 企みに満ちた二人の表情には見覚えがあった。

「ひょっとして、ネリさんの能力?」

「そうだ。シーナには前に見せたことあったよな。ある事柄にスポーツのルールを適用する」

 田村がファミレスで見せたレイボの一件だ。あのときはレイボの色を野球のスコアに見立てたんだっけ。

「ホームランてことは、今回も野球のルールを?」

「はい。とはいえ、わたくしの能力も万能ではございません。武人さまだって血の滲むような努力をして厳しい世界で生きてこられたのです。そのルールに見合った困難を乗り越えなければ力を発動することは出来ないのですが……」

 ネリは公園の向こうへと視線を投げた。

「ツェラ姉さん。姉さんには今からバッターになっていただきます」

「へ?」

 ギーコ。ギーコ。頭の上に疑問符を浮かべたツェラの漕ぐブランコは揺れ続けていた。

「投じられたボール。それはそのお履き物です。さあ、姉さんの力でどうかあのフェンスを越えてくださいませ」

 ネリが向こうに指差したのは破れかけた公園の金網であった。

 僕にはピンときた。と同時に、ツェラの目が一瞬のうちに輝くのが見えた。

「わかった、靴飛ばしだね! やるよおネリちゃん!」

 ツェラの心の中に火の点る音がボオッと聞こえるようだった。

 そうだ。つまり靴飛ばしであの公園のフェンスを越えられればホームランということだ。ツェラは生まれた場所を思い出すことが出来る。

 履いているサンダルのベルトを器用に緩めるとツェラはよりいっそうの力をこめてブランコを漕ぎ始めた。ネリが胸の前で手を組み、目を瞑った。

 よし。ツェラ、頑張ってくれ。

「鮎川くん、後ろお願い!」

「え、後ろ?」

 どうやらツェラは背中を押せと言っているらしい。その意気に急かされて僕はベンチから立ち上がってツェラの後ろに回り込んだ。

 こ、怖い。

 僕は周期的に猛スピードで向かってくるツェラの背中に手が触れる位置まで近づいた。その位置に立つことも怖いが、そんなスピードでブランコを漕ぐ相手をさらに自分が加速させるのもまた怖い。

「ツェラ、もしダメだったらダメって言ってよ」

「へーきへーき!」

「よし……!」

 僕は勇気を振り絞った。やってきたツェラの背中を顔面の前で受け止めると、歯を食いしばって前へ押し出した。

 ツェラのブランコの角度が上がり、すぐさま勢いを増した背中が目の前に迫ってくる。

「もっともっと!」

 こうなったら観念するしかない。僕は全身の力をこめてツェラの背中を押し続けた。

「ふんぬっ!」

 いったんリズムに乗ってしまえば最初に感じた恐ろしさが薄れてくる。逆に楽しささえ僕は感じ始めていた。ツェラの漕ぐブランコのリズムに合わせて僕は自分の体重を思いきりツェラの背中に預けるようになっていた。

 やがてブランコの角度が最高潮に達した。

「よし、いくぞ!」

 最後の一押しとばかりに僕は両腕に全体重をかけ、ツェラを前へと送り出した。

「そおーれえええーーー!」

 加速するブランコと共に振り上げた足の先からサンダルが鋭い角度で薄暗い空へと蹴り出された。

 こちらへ戻ってくるツェラの体をかろうじてかわしながら僕はその航跡を見逃すまいと必死に目を瞠った。

 そして僕の目はそれが上がっていく放物線の頂点で公園のフェンスをギリギリ越え、その向こうの湿った道路へと落ちていくのをたしかに捉えた。

「おおおお!」

「ホームランですわあ!」

 立ち上がった田村とネリが歓声を上げた。

 僕は片足が裸足になったツェラの体を受け止めてブランコを止めた。

「やったあ!」

 後ろの僕のことなど気にかけず、ツェラはブランコをギシギシいわせて喜んだ。

 成功だ。そう思うと僕の体から一気に力が抜けた。と同時にツェラが叫んだ。

「あ、そうだ!」

「ツェラ姉さん、思い出しましたか?」

 ネリが食い付くように身を乗り出した。

 これでツェラの生まれた場所を特定出来れば……。

 しかし、叫んだもののツェラはまた、うーん、と首を捻ってしまった。

「思い出したの。でもね、それがどこなのかよく分からないの」

 田村とネリが二人して拳を握りしめて彼女の次の言葉を待っている。

 おそらくツェラはこの世界へやってきた、そのときの光景をはっきりと思い出すことが出来たのだろう。しかし、それがどこだと説明してよいのか言葉に出来ずに迷ってしまっているのだ。

 僕はゆっくりと諭すように言った。

「ツェラ、大丈夫。なんとなくでいいよ。何が見える? 見えるものさえ言ってくれれば僕と田村ならこの町のことならきっと分かるから」

 ツェラは僕の目を見た。

「ええとね、あれは、とっても広いところだったの。でもね、なあんにもないの。空っぽで、下は半分は草が生えてて、もう半分は道路みたいに固くて。周りはここみたいにぐるっと網になってて……」

 なんにもない。空っぽ……。

 僕と田村は同時に息を飲み、顔を見合わせた。

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