第49話 湿った公園の印象派
三日目。
「え、いまなんて?」
思わず僕は彼女の目を睨みつけていた。
「鮎川さん。驚かれるのも無理はありません。しかし、思いのほか事態は急速に進行していたのです。〈絶望の卵〉。その災厄が訪れるのは明日です」
ネリは淀みなく僕にそう告げた。
放課後、僕とツェラが連れてこられたのは高校から僅か五分ほど歩いたところにある小さな公園だった。
校門で待ち合わせた田村に案内されて付いていくと、登校時間ともなれば多くの生徒でごったがえす通学路から一本逸れただけだというのに、その裏道にはじめじめと湿った空気が漂っていた。さらにまるで私道のような細い路地に入ると途中からは舗装されていない砂利道を踏むこととなり、その突き当たり、失礼ながら人の住んでいる気配のないアパートの裏手にその公園はひっそりとあった。
周囲は錆びた金網に覆われ、中に入るにはその一角にある立て付けの悪い扉を開けて潜り込むように頭を下げねばならなかった。頭を上げた僕の目に入ったのは申し訳のようにベンチが一脚とブランコが二台ばかり。遊具と呼べるのかすら疑わしいそれらが設置されているおかげでかろうじてこの空間は公園と見なせるものの、当然のようにそこは子どもはおろかやんちゃな中学生の溜まり場にすらなっていなかった。
そんな辛気くさい場所でネリの言葉を聞いたのだから、気が滅入るなと言う方が無理な話である。
田村は既にネリから聞いていたのかもしれない。目を瞑ったまま無言であった。そんな様子を見て自分ばかりが動じるわけにはいかないと、僕は荒れそうになる息を懸命に整えていた。
「明日、時刻はおそらく夕方、ちょうど今くらいになるでしょう。新たな〈絶望〉がこの町に現れ、そして標的となった人物に取り憑きます。不運なその方には必ずや絶望的な災厄がもたらされるでしょう」
「もう一度確認なんだけど、その〈絶望〉の到来を回避する方法は……」
「ありません」
何度も発した問いだった。それに対するネリの答えもまた変わることはなかった。一見冷淡に思えるそのネリの態度だが、今日の彼女の一段と険しい顔つきを見れば彼女がごまかしや気休めの言葉に及ぶとも思われなかった。
「今んとこ俺たちに出来るのはその不運な人物を特定して少しでも〈絶望〉がやわらぐようサポートしてやるくらいってことだな」
「はい。武人さまの仰るとおり」
「どんな災厄が起こるかってのも分からないんだよね?」
「はい。残念ながら」
前もって到来を知っていながら僕たちに打って出る手立てはほとんどない。
苛立ってはならない。それは田村もよく分かっているはずだ。それにネリにばかり質問を浴びせるのもいけない。一人ひとりが自分の頭で考えなければならないはずだ。
ギーコ。ギーコ。
みなが黙りこくった陰鬱な公園に規則的な音が響いている。彼女は彼女なりに思索を巡らせているのだろう。鎖の錆び付いたブランコに乗ったツェラがわりと大きな振り幅で前へ後ろへと揺れていた。その視線は曇り空に固定されている。
「ねえ、ネリさん」
質問攻めにするのはよくないと思いつつも僕は沈黙に堪えかねた。
「はい、なんでしょうシーナさん?」
「〈絶望の卵〉がやってくるって、いったいどこから来るってことなの?」
これまで標的となる人のことばかり気にしていたが、確認すべき重要な点であった。
「分かりません」
しかし、半ば予想していた通りネリの答えは簡潔だった。彼女のことだ、それが分かっているならとっくに対策は立てているだろう。
「わたくしたち〈絶望〉はみな同じ地点に生まれます。けれど、その地を思い出すことは不可能なのです。わたくしたちはマスターといいますか、宿主といいますか、ツェラ姉さんであったらシーナさん、わたくしだったら武人さまというように〈絶望〉の生みの親に出会うことによって初めて自我を持つのです。それまでは一心にマスターの元へ向かうしか能がありません」
そういえば田村を運び込んだ病院でネリとすれ違ったときも僕には見向きもせず一目散に病室へと駆けていったっけ。
ネリは申し訳ないといった顔つきをしていた。もちろんここで彼女を責めるのは道理ではない。
けれど彼女の言葉にはどこかひっかかる部分があった。それはたしか目の前で錆びたブランコをギーコギーコいわせている僕の〈絶望〉に関することだったはずだが……。
「そういえばツェラ、今日一人で学校へ来るとき、なんか懐かしかったって言ってなかったっけ?」
「へ? うーん。あ、そうそう! この道って初めて鮎川くんに会った日に通った道だなあって、思い出しちゃって」
ネリの息を飲む音が聞こえた。
「そ……、それは本当ですか、ツェラ姉さん?」
「うん」
「信じられない……」
ネリは文字通り目を丸くした。
「それってそんなにすごいことなのかい?」
「すごいもなにも……。マスターに出会う前の記憶を持つだなんて、人間でいったら産まれる前のことを憶えているようなものですよ!」
「えへへー。わたしすごいのかなー」
照れを隠すようにツェラはブランコを大きく揺らした。
「ツェラ姉さん、それはいったいどこなのですか?」
「うーん、それが途中までしか分からなくて……。いつも通ってる通学路からどこかで違う道に行くと思うんだけど……」
息急くようにネリが訊ねたが、ツェラは曖昧に言ったまま首を捻ってしまった。
ギーコギーコとツェラの漕ぐブランコの軋む音だけが公園に響いていた。要領を得ないツェラの様子に珍しくネリのじりじりし始めるのが僕にも分かった。
「ネリ、落ち着け」
堪えきれずに何かを言おうと口を開いたネリの肩に田村が手を置いた。
「ようするにあれだ。ネリたちの生まれた場所が分かれば良いってことだろ?」
「はい、しかし、ツェラ姉さんがこの調子では……」
「生まれた場所、つまりホームってことだ。ホームに帰ればいいんだよな?」
田村はこの公園に来て初めてニヤリと笑った。
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