第48話 沈む夕陽の十倍速く
一度読んだだけですべてを味わい尽くすことは出来ず、読む度に新しい発見があるというのが名作の条件であり、もっと言えば読書とは本来そういったものである。耳障りのいい理想論かもしれないが、僕はわりと本気でそう思っている。
つまり、タイトルだけは知ってるけど一度も読んだことがない小説を「ちゃんと読んだことない」などと言ってお茶を濁す論法があるけれど、そもそも一冊の本を「ちゃんと読む」ということがどこまで可能なのか。これは一介の読書家として生涯のテーマである。
いま『走れメロス』のラスト一行を読み終えた僕は目を瞑り、本を読むことへの根源的な問いを発していた。それほどにぼくはあらためて読んだ『メロス』に感動していた。前に読んだのはwebブラウザか電子書籍のようなものでだったかもしれない。するとどうしても冒頭の大喜利まがいのコピペ欲求やメロスとセリヌンティウスのBL的イメージなど、電子の海に寄せては返すネタ的消費に意識が流されがちになってしまうのだ。それも歴史的名作にとっては避けることの出来ない、それこそ運命なのかもしれないが。
僕は思った。名作は紙に限る。
ひとつの命題を導き出してから目を開けると、ツェラがあらぬ方を見ながら口をとがらせて息をフーフーと吐いていた。どうやら吹けない口笛を吹いているらしい。やっぱりレイボの虹探しには飽きたか、と思った瞬間、猛烈な勢いで机に置いたスマホをタップした。
「うわっ! ビックリした……」
「いまのはレイボさんなんて知りませんよって顔で油断させておいて……、からの不意打ち! っていう作戦だったんだけど。あー、やっぱりダメかあ」
スマホ相手に心理作戦は有効とは思えない。しかしここまでツェラが粘るとは少し意外であった。
「そんなに虹が気になるかい?」
「うーん。なんていうか、いつかきっと虹が出るって、そんな気がするんだよね」
そういうとまた、ぞいやっ、とスマホに向かってどこの方言だか分からないような掛け声を上げた。根拠も希薄で真偽の程も疑わしい噂話にそこまで熱心になれるのはちょっと羨ましくもある。信じるってそういうことなのだろうか。
再び目を閉じるとシャイーンと聞き慣れない、いや、どこかで聞いたことのある音が聞こえた。
「なんだっけこれ?」
「へ? な、なんだろーねー……」
ツェラはついっと席を立つと、ちょっと本探してくる、と言ってまた吹けない口笛をフーフー言わせながら書架の方へ歩いていった。
ツェラがいなくなったことでカウンターへの視線を遮る物が無くなってしまったわけだが、ちょうど朝吹さんは席を外しているようで姿が見えなかった。机に放置されたスマホを手にする気にもなれず、僕はまた目を閉じた。
それにしてもメロスの最後のシーン。友を信じて待ち続けたセリヌンティウスとその思いに命懸けで応えたメロスの熱き抱擁。美しい友情を描いた場面なのだが、そのときメロスは「まっぱだか」だったんだよな……。
いらない想像をたくましくしているとトントンと肩を叩かれた。目を開けて振り返ると数十センチの距離に朝吹さんの顔があった。
「ああっ、すいません! ちょっと考えごとを……」
「いえ、驚かしてごめんなさい。このあいだは本返却してくれてどうもありがとう」
つい大きな声を出してしまった僕を制するように朝吹さんが声を落として言った。耳をくすぐるその吐息に僕の心はなおも自制心を失いそうになる。
「こ、こちらこそ良い本を教えてもらって……」
「どうでしたか? あまり好みじゃなかったかな?」
そう訊ねた朝吹さんの表情には微かに不安が混じっていた。
いけない。彼女の好意を無駄にするなど自分にとっては一生かけても償いきれない罪を背負うのも同義だ。
「そんなことないです! すっごく面白かったです!」
「それなら良かったあ」
その顔にぱあっと安堵の色が広がった。
嘘ではなかった。実際にセス・フリードという著者によるその短編集はすごく面白かった。これまで海外文学を食わず嫌いしていた僕の狭い見識を一気に開いてくれたと行っても良いくらいだ。
しかし、ただ面白かったではいかにも不十分である。全然足りない。小学生がいやいや書いた読書感想文でもあるまいに、もっと語彙を尽くして感想を述べなければ。
僕は突然の展開と顔の近さとなんだか良い香りを全力で脳内から振り払った。なんとかして言葉をひっぱり出すんだ。奮い立て、僕のメロス!
「あの架空の微生物の生態が書かれている話? あれがすごく良かったなあ。寿命が一億分の一秒しかない生物の生活史が淡々と書かれてたり。よくああいうの思いつくなあって」
「あ、あれわたしも大好き! 真面目な顔して書いてるからよけい可笑しいんだよね!」
思わず手を叩いた朝吹さんは自分の声量に驚いたようにハッと口元を押さえると周囲を見回し、僕に照れ笑いを見せた。その笑顔はスマホどころか部屋中の壁紙にして永遠に崇めていたいほどの美しさだった。
「でも良かった。鮎川さんて図鑑みたいのよく読んでるからきっとああいうのも気に入ってくれると思ったんだ」
「う、うんまあ。けっこう色々読むから……」
朝吹さんの視線が自分の手元に向いていることに気が付いて僕は言葉を濁した。生物図鑑に太宰。ちょっと意味不明すぎやしないだろうか。それにしても顔が近い。
つい身を引いてしまった純情な僕に合わせて朝吹さんもハッと屈めていた背筋を伸ばした。
「すみません。あの、わたし目が悪くて」
「あ、そうなんですね。いえ、僕の方はぜんぜん大丈夫です」
慌てて言ったが言い逃れになっていただろうか。
朝吹さんはカウンターへと視線を走らせた。
「じゃあまた鮎川さんも素敵な本があったら教えてくださいね」
唐突に僕の元へ舞い降りた女神は再びカウンターへと戻っていく。旅立つメロスの背にセリヌンティウスはなんと声をかけたのだったろう?
「あ、あの」
僕の声に女神が振り向いた。
「はい?」
「もし良かったら僕と友達になってくれませんか?」
言った自分でも耳を疑うような台詞だった。
朝吹さんは一瞬きょとんとしたが、すぐに笑顔を作った。
「喜んで。今度わたしからもレイボ送りますね」
その後ろ姿に視線を据えながら、僕は抜けてしまった魂が自分の体に戻ってくるのをしばし待たなければならなかった。
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