第46話 ドーナツの穴はどんな味?

「く、黒田、それはまさか……」

 目を見開いた田村は語尾を震わせた。

「うーん、まあなんていうかあ、某ドーナツ的なあ?」

 そうだ、思い出した。あのパッケージのロゴ、あれは駅ビルに新しく出来た例のドーナツ店のロゴだ。いまなお店の前には行列が出来、一部の人気商品は入手すら困難と言われている。

「邪険にした俺が悪かった。謝るよ。だからそのドーナツを一個、いや、一口で良い。俺に分けてくれないか?」

 黒田の足下にすがりつかんばかりに田村が懇願する。こんなに低姿勢の田村は見たことがない。ネリがアワアワと困惑している。

「そうだなあ。それじゃあ~、ふた~つあるから~、二人にひとつずつ~、あ、げ、る」

 耳障りな口調で科を作った黒田はいかにももったいつけた手つきで僕と田村にビニール包装されたドーナツをひとつずつ手渡した。

 ほほう、これがその大人気店のドーナツかと、いちおう僕も感慨深く眺めた。真ん中に穴が空いていて、まあ見た目はいたって普通のドーナツである。これがそれほどありがたいドーナツとは少し信じられないほどだ。

 田村はと見ればなにか重大な宝物でも預かったかのようにドーナツを持つ手に力をこめている。

「ほ、ほんとに食っていいのか?」

「どうぞお~」

 まだいやらしい喋り方を続ける黒田。まあ気にすることはない。

 では僕もありがたいドーナツを頂戴しようとビニールを破いて一口かじった。

 うん……。まあ美味しいよ。でもなんていうか、特別にフワフワしているわけでもしっとりしているわけでもなく、ごく普通のドーナツだ。この妙に馴染みのある甘さと口の中の水分が奪われていく感じはあの普通にスーパーに売られているキングドーナツに酷似している。キングドーナツそのものであると言ってもいい。

 田村の様子はと窺うと、口を動かしながら目を瞑って天を仰ぎ、眉間には深い皺を寄せている。愉悦というよりもむしろ苦悶しているようなその表情はおそらく僕と同じ感想を抱いたゆえにその事実を自分の中でどう処理して良いものか分からず戸惑っているのだろう。

 僕は単刀直入に訊いた。

「ねえ叶映、このドーナツどこで買ってきたんだい?」

「え、近所のスーパーだけど」

「キングドーナツだよね?」

「うん、キングドーナツだよ」

 そんなことだと思った。例の人気ドーナツ店は紙袋だけ。中身は詰め替えてあったのだ。黒田はこういう奴である。幼馴染みの僕にはよく分かっていた。

 僕の隣で先ほどとは異なる震えがガタガタと起こり始めていた。黒田はくるっと踵を返すとばいばいきーんと言い捨てて風のように校舎の中へと駆けていった。あまりの痛ましさに田村を直視することが躊躇われる。

 ともかく残りのドーナツを片付けてしまおうと口に運びかけたところでツェラが僕の手元を凝視しているのに気が付いた。

「あ、食べかけだけどいる?」

「うん!」

 受け取ってありがとうと言うが早いかツェラは一口でドーナツを平らげた。

「おいしーい!」

「だよね。キングドーナツだってそれはそれで美味しいんだよ」

 上気したツェラの顔を見ているとそれまで〈絶望の卵〉の話題で沈んでいた心も少し和らいだ気がした。

 一方、黒田に謀れて怒りに震えていた田村は今やほとんど呆然とした足取りでベンチを離れて校舎へと歩いていった。その後ろ姿にはネリすらかける言葉を失っているようである。

 時刻は午後の授業開始五分前だった。そろそろ僕たちも行くかと腰を上げかけて僕はあることを思いついた。田村のサンドイッチの包みを持ったまま手持ち無沙汰なネリに、前にツェラに訊ねてもいまいち要領を得なかった疑問を訊ねてみようと思ったのだ。

「ねえ、ネリさん」

「はい、なんでしょうシーナさん?」

「君たち〈絶望〉って、どうして僕やタケちゃんのところにやってきたんだと思う?」

 要領を得ないのは僕の質問の方だったかもしれない。なによりそれを〈絶望〉当人に向かって訊くのは失礼な話だとも考えられる。

 僕の不躾な言葉にネリはしばらく黙っていた。そして、僕の目を見てネリは言った。

「シーナさんはドーナツに穴はあると思いますか? それともないと思いますか?」

 それは不思議な問いかけだった。

「え、ドーナツ? ドーナツに穴はあるんじゃないかな」

「はい、ドーナツに穴はあります。では、ドーナツの穴、と言い換えたらそれはどうでしょう?」

「それは……」

 ドーナツの穴。それはあるのか、それともないのか……。

「わたくしはドーナツの穴はあると思いたいのです」

 僕はネリが何を言わんとしているのかうっすらと分かりかけてきた。

「わたくしたち〈絶望〉も同じものかもしれません。まず希望の存在を前提するとします。すると、希望のない状態、それが絶望と呼ばれるのでしょう」

「うん。一般的にはそうだね」

「でも、それではわたくしたちの存在が証明出来ないのです。ないものはない。けれどわたくしたちはこうして現に存在するのですから」

 ネリの口調は落ち着いていた。

「絶望はあると?」」

「希望はある。そして、絶望もまたある。わたくしたち〈絶望〉はたしかに人の世に存在していて、人と共にあるものなのです」

 抽象的ではあったけれどネリの言うことには納得する部分もあった。ドーナツの穴はないのではなくて、ある。絶望もまた希望がないことの言い換えではない。そこには絶望がある。

「ないと言ってしまえばネリさんたち〈絶望〉とこうして話すことも出来ないってわけだ」

「はい。わたくしもおかげでシーナさんや武人さまとご一緒にお喋りをしたり、歩いたり、サンドイッチを食べたり出来るのです」

 ネリはいくらか顔を赤らめ、照れくさそうに笑顔を見せた。

 僕とネリの会話をどれほど聞いていたものか、ツェラが砂糖の付いた指先をペロリと舐めた。

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