第42話 差し伸べるための手だから
弁当の包みを提げて中庭までやってくると既に田村とネリは来ており、二人は古ぼけたベンチに並んで腰掛けていた。いまにもひと雨来そうなこんな空の下、わざわざ屋外で昼食をとろうなどという生徒は珍しいらしく、他に人影は見当たらなかった。
「さあ、どうぞおかけになってください」
ネリに促されるまま田村を真ん中に挟んで僕は腰を下ろした。
いつになく真剣なネリの面持ちからこれから良くない話を聞かされるであろうことは予想できた。早急に本題へと踏み込む勇気を持たない僕はともかく膝の上に弁当の包みを広げた。一方、田村は左手だけで食べられるサンドイッチを口に運びながらネリを横目で窺い、どこかそわそわと落ち着かない様子で、彼もまだ何も聞かされていないことが知れた。
しばし無言のまま昼食は進んだ。ネリは持参した水筒のフタに中身を注いで田村に手渡した。もうもうと湯気の立っているのが見るからに時季外れだが、田村も無下に断ることが出来ないのであろう、それを受け取って口を付けた。
「うわ、甘っ!」
「はい。砂糖をたっぷり入れたわたくし特製の麦茶でございます。懐かしいお味がしますでしょ?」
田村は苦笑し、熱々の麦茶に何度も息を吹きかけた。
僅かに緩んだ空気の隙を突いて僕は話しかけた。
「ねえネリさん。その、話っていうのは……」
「はい」
ネリは僕の目を見た。田村は口に運びかけた水筒のフタを下ろして足下に視線を落とした。
ネリが言った。
「この町に新たな〈絶望〉がやってきます」
僕は、そして田村も、何度か瞬きをした。
意味が分からなかったのではない。おそらく彼女の言った通りなのだが、その真意を掴みかねた。
最初に口をきいたのは田村だった。
「〈絶望〉っていうのは、ネリやツェラちゃんみたいなものってことだろ?」
「はい」
「なんだ、友達が増えて良かったじゃねえか」
田村は無理矢理みたいな笑顔を作った。
「しかし武人さま、残念ながら今度の〈絶望〉はわたくしやツェラ姉さんとは異なるのです」
「お、おう」
「現在この町に近づいている〈絶望〉。それは言うなれば〈絶望〉の根源のようなものです。その〈絶望〉が到来するや、標的とされた人物には最悪の、取り返しのつかない悲劇がもたらされるでしょう」
ネリの口調には熱がこめられていた。
到来して悲劇をもたらす〈絶望〉?
「ねえネリさん」
僕は疑問をぶつけた。
「なんでしょう?」
「ツェラやネリさんは僕らの〈絶望〉が具現化した存在なんだよね?」
「はい」
「だったら順序が逆なんじゃないかな。ある人が精神的に打ちのめされて、その結果としてその人の前にネリさんみたいな〈絶望〉が現れるってことでしょ? 先に〈絶望〉がやってきて取り付いた人に悲劇をもたらすっていうのは……」
「シーナさんの仰るとおり、通常の〈絶望〉の発生から考えれば順番が反対です。しかし、今回のものは特異種と考えた方が適切でしょう。なぜそのような忌まわしき存在が現れ、そしてこの町に近づいているのか、わたくしにも詳しいことは分かりかねます」
ネリは眉間に皺を寄せた。
田村がそれでも理解出来ないといった風に首を振りながら言った。
「でもなんでネリにそんなことが分かるんだ?」
「少し前から嫌な予感がしていました。ツェラ姉さんのときと同様〈絶望〉どうし感じられるものがあるのです。その感じ方はそれぞれですがツェラ姉さんはああ見えて繊細な性格ですから邪悪な気配が直接体調に影響してしまったものと考えられます。邪悪な〈絶望〉の元、〈絶望の卵〉とでも言えましょうか、それはすぐ近くにまでやってきています」
田村と僕は一瞬だけ顔を見合わせた。
「ネリさん、そこまでの話はなんとなく分かりました」
「で、俺たちはどうすりゃいいんだ?」
田村の疑問はもっともだった。
「到来を事前に食い止めることは出来ません。かといって存在を知ってしまった以上、そのような災いの到来から目を背けることも出来かねます。いままさに溺れゆく人にどうして手を伸ばさずにいられましょうか。わたくしたちに為し得る最善の策を思考するしかないでしょう」
その小さな体から告げられる言葉の重みを僕はまだ受け入れかねていた。田村もまた困惑の表情を隠さなかった。僕たちはさも今になって空腹を思い出したかのようにしきりに弁当を口へと運んだ。
「もうひとつ言っておかなければならないことがあります」
そう言ったネリの声音には先ほどとは違う躊躇いが含まれていて、田村がうんざりしたように息を吐いた。
「なんだい?」
「その〈絶望の卵〉が標的にする人物は武人さまかシーナさん、どちらかにとても近しい人になるでしょう」
僕と田村は絶句した。
「これはわたくしにとってすごく申し訳ないことです。けれど致し方ないことでもあります。〈絶望〉はまた別の〈絶望〉を引き寄せてしまう。そういうことなのです」
もちろん僕も田村もネリを責める言葉を持たなかった。
僕か田村のとても近しい人。その人に〈絶望〉が降りかかり、そしてそれは事前に食い止めることが出来ない……。
「降ってきたか」
僕らの見上げる空から細かな滴がひとつふたつと落ちてきた。僕と田村は昼食の残りを慌てて口に詰め込んだ。
午後の授業はほとんど頭に入らなかった。当たり前だ。ネリから突然にあんなことを告げられては。
ともかく早く帰ろう。最後の授業終了を知らせるチャイムを聞いた僕の頭にあるのはそれだけだった。田村はいち早くバッグをひっつかんで教室を出ていってしまった。今日のところは無闇なことを考える気になれないのは彼も同じなのだろう。
僕は家に残してきたツェラのことも気になっていた。大事がなければ良いのだが……。
そう思って席を立つと同時にバッグが震えた。スマホを取り出してみると自宅からの着信である。不安を胸にその場で通話へと切り替えるとまさにツェラの声が聞こえた。
「もしもし、どうした?」
しかし、スマホから漏れる声は弱々しく、今にも消え入りそうだった。
「鮎川くん、あの、あの……」
「具合悪いの? 大丈夫、すぐ帰る。すぐ帰るからもう少しだけ辛抱するんだ」
「ううん、そうじゃなくて。わたしは大丈夫なんだけど、いま有以さんが電話を受けてて、あの、小楢ちゃんが……」
妹の名を耳にした瞬間、僕の背筋に冷たいものがすうっと流れた。
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