第3章
第41話 光のない幕開け
一日目。
重苦しい雲が空を覆っていた。
目覚まし代わりにスマホでニュースサイトを立ち上げるとこんなにも梅雨の長引くのは異例の事態だと天気予報のお姉さんが眉間に皺を寄せながら報じていた。
最後に晴天を仰いだのはいつだろう。いったんは夏の気配すら見せていた空だったが本格的に梅雨の雨雲がやってくると太陽は雲の向こうへと隠れたままちっとも顔を現さなくなり、それまでの陽気は掻き消えたように鎮まって連日において上着と傘が手放せなくなってしまった。
頭のすっきりしないままキッチンへ降りると有以さんがフライパンをジュージューと鳴らしていた。
「おはよ」
「ああ、篠生おはよう。いま用意しちゃうからちょっと待ってて」
「うん。大丈夫」
僕は自分の茶碗を取り炊飯器からご飯をよそった。
小楢は朝練のためにとっくに出ていた。有以さんの分と二人分の味噌汁を注いで席に着くと、有以さんが目玉焼きを皿に載せて運んできた。
「さ、早めに食べちゃいましょ」
有以さんと僕はそれぞれ手を合わせた。
朝食はこれといった話題も無く粛々と進んだ。その静けさが僕の心をどこか落ち着けないものにした。
まるで空っぽの袋に物を詰め込むようにご飯を食べ終えた僕は席を立つと冷蔵庫から牛乳を取り出した。
「ごめんね篠生。最近コーヒー淹れられなくて」
「いいよ。時間のあるときに淹れてくれればいいから」
しばらく有以さんのコーヒーにありついていない。というのもこれまで密かに朝食の支度を手伝ってくれていたツェラがこのところずっと寝坊がちでいつまでもいぎたなく布団にくるまっているからである。もちろん家事の手伝いは彼女の義務ではない。けれど、最近の彼女はどうも怠けがちに見える。
朝食を終えて歯を磨いてから部屋に戻ると、やはりツェラは床に敷いた布団に頭からすっぽり入っていた。
「ツェラ、朝だぞ」
僕は声をかけた。布団の中からうううっと声が聞こえる。
「ほら、学校の時間だぞ」
僕はいちおう紳士なので布団を引っぺがすようなことはしないが、あまりにもぐずついた様子に睨みを効かせた。
それでも起きてこないのでもう一声かけようとして、はたと気が付いた。
「どうしたツェラ? ひょっとして具合でも悪いのか?」
「へ、えへへ……」
布団から顔を覗かせたツェラは笑っていた。しかし、その笑顔には明らかに無理が見て取れた。
「風邪でもひいた?」
「ううん。風邪じゃないと思うんだけど……」
その声は芯を失ったように弱々しくいつもの快活さがこれっぽちも無い。
「いいよツェラ。学校は休みな。一日くらい行かなくても平気だろ?」
「うん、たぶん。あはは」
多少の無理は通すこのツェラが断らないところを見ると相当に良くないらしい。心配ではあるが僕にはどうしたら良いものか分からない。彼女は怠けていたわけではなかったのだ。昨日までの様子からその不調を察することの出来なかった自分を恥じた。
「もし何かあったら連絡するように。家の電話の使い方は分かる? あと起きられたら冷蔵庫のものとかなんでも食べて良いから」
「うん。ありがと」
照れているのかごまかしなのか、ツェラは力なく笑った。
登校の準備を済ませて部屋を出る直前に振り返ると、ツェラは布団の中からヒラヒラと手を振ってみせた。これまで感じたことのない重苦しさを胸に抱えたまま僕はドアを閉めた。
高校に到着するなり僕の目に入ったのは昇降口で待ち構える小柄なゴスロリ少女だった。ネリは僕の姿を確認すると長い髪を揺らして駆けてきた。
「鮎川さん、ツェラ姉さんは?」
「今日は休み。なんだか具合が悪いみたいで」
普段のクールさとは明らかに異なるネリの様子から彼女がツェラについて何かを知っていることはすぐに知れた。しかし、僕は努めて冷静に下駄箱へ向かった。
冷静になる理由はいくつかあった。ひとつにはこの状況においてはまず落ち着いて対処することが重要だと直感で知れたこと。いまひとつは自分以外の〈絶望〉との会話は周囲に知覚されてしまうということだ。他人に知覚できないのは自身の〈絶望〉であるツェラとの会話においてのみ。田村の〈絶望〉であるネリとにこの便利な設定は適用されない。
下駄箱から上履きを取り出しながら小声で話しかけるという一見そっけない僕の態度に気を悪くする様子も見せず、ネリは、ふうむ、と顎に手を当てた。
「やっぱり……」
「ネリ、何か心当たりが?」
ネリは僕の目を真っ直ぐに見上げた。
「シーナさん。これはとても重大な問題です。後でお話があります」
そう言い残してネリは校舎の外へと駆けていった。
おそらくネリはツェラの不調の直接の原因を、ないしはそれに関する何らかの事情を知っている。しかし、いまの僕にはそれがなんなのか見当がつかない。
胸騒ぎを覚えた。手に提げた上履きをスノコに放り落とすと薄暗い下駄箱に湿った音が響いた。
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