第40話 解かれた糸と切れた糸

 まるでリセットボタンでも押したかのようだった。

 翌日、登校して教室に一歩足を踏み入れた僕が目撃したのは、田村が怪我を負って学校を休むようになった前日までの光景そのものだった。

 田村の机の周りは三好をはじめ野球部の面々が集っていて、他愛もない、つまり至極健全な男子高校生の笑い声で華やいでいた。その中心に座る田村じしんもその一員として晴れやかな笑顔を見せていた。それまでの両者の間に横たわっていた暗く冷たい軋轢が何事も無かったかのように一掃されているようだった。

 だが、時間が巻き戻ったわけではないことは田村の右肩を覆うギブスが明白に証していた。

 僕は疑問を脳内に貼り付けたまま彼らを必要以上に注視することなく自分の席に着いた。

 事実はすぐに知れた。

 田村は野球部をきっぱりと辞めた。そして、彼の抜けた野球部は部長を筆頭として次期エースピッチャーの選定を着々と進めているらしい。加えて、これはたまたま小用で隣に立った田村がこっそりと教えてくれたことであるが、彼と野球部の部長の妹である凜乃さんとの関係も完全に解消したそうだ。凜乃さんは退部予告を撤回し、部長と共に兄妹で全国を目指すことに意気込みを見せているという。

 

 これは僕の憶測である。

 三好は部内恋愛禁止と言っていたが、おそらく田村と凜乃さんとの深い関係は部の中では半ば公認のものだったのだろう。エースピッチャーと部長の妹マネージャーともなれば誰も口出しすることは出来まい。

 しかし、それは決してすべての部員にとって祝福される関係ではなかったはずだ。ただでさえ羨望の対象になるだろうし、そこに特権を見て取る者だっていただろう。軽口や冷やかしが集積し、いつしか強力な負のエネルギーとなる。いわゆる嫉妬というやつだ。

 二人はおそらく気が付いていた。そして、それは二人にとっては兄であり親友でもある部長もまた例外ではなかった。部をまとめる立場にいながら二人の関係を黙認することにどれほどの葛藤があっただろう。だから今回、二人の密会を起因として部にとっての最重要選手である田村が怪我をしたことに対して、部長はたとえ表向きにでも怒りを表明し、彼を断罪しないわけにはいかなかった。三好の言った部長命令が具体的にどのようなものかは分からない。だが部員たちのかねてよりの嫉妬を下地としてその断罪は過剰にヒートアップしてしまったのだろう。シカトなんてあまりにも子どもじみているが、人というものは多数集まれば集まるほど愚かにだってなり得るのだ。

 

 しかし、そんなあれやこれやも一夜にしてすべてがわだかまり無く、きれいさっぱり解かれていた。そう、まるで魔法でもかけたみたいに。田村がいろいろなものを失ったことを除いては……。

 ファミレスで田村とネリが見せたある種の能力が関わっていることはおそらく僕だけが知っている。その能力の発動にはネリと、そして田村じしんの意志とが深く関係していることにも。


「ねえ鮎川くん」

 家路をゆるゆると走る自転車の後ろでツェラが言った。

「なんだい?」

「ネリちゃんがね、いまお勉強してるんだって」

「ほう」

「田村くん、いま怪我してて右手が使えないでしょう。だから授業中に左手で書いたノートをお家に帰ってからネリちゃんが代わりに清書するんだってさ」

「それは感心なこった。家でゴロゴロしてばかりいるどこかの誰かさんとは大違いですな」

 皮肉を言ったつもりだったが背中からはえへへという照れ笑いが聞こえた。後輪が左右に揺れるので漕ぎにくくて仕方がない。

「ま、別にいいんだけど」

 帰路は今回の件の発端となった坂道に差しかかり、僕とツェラはいったん自転車から降りた。あいにく僕の自転車に電動アシスト機能は付いておらず、この激しい傾斜を立ち漕ぎで登り切れるほど僕の足腰は強靱ではない。ハンドルを握って自転車を押し上げる僕の後ろをツェラがのんびり付いてくる。

 そういえば授業が終わった後、田村が帰り支度をする僕のそばに来て、これからもたまには一緒にメシ食おうぜ、と一言残して去っていったっけ。彼のことだ、あながち社交辞令というわけではないだろう。図らずも僕にとっては高校入学以来初めての友人らしい友人が出来たというわけだ。そしてなによりツェラにしてみれば僕以外に自分の存在を認識してくれる人物が田村とネリ、二人も現れたのだ。

「ねえ鮎川くん。わたしがこうやって押したら速いと思う?」

 突然ハンドルが軽くなったと思えばのんびり歩いていたツェラが後ろの座席に両手を当ててぐいぐいと押し始めた。たしかに楽である。けれど、ツェラがあんまり夢中になって押すので僕はこの坂道をなぜか駆け足で登らなければならない。

「ああ、速いよ。速いけど、ちょっと!」

 二人で自転車を押して坂道を上るだなんてちょっと青春ぽいシチュエーションだけど、他人から見れば僕が一人でヒイヒイ言いながら自転車にすがるようにして駆け上がっているようにしか見えないだろう。

 ま、別にいいんだけどさ。

 こうして僕たちに平穏な日常が戻ってきた。


 と、この時はまだそう思っていたんだ……。

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