第38話 絵筆を洗ったバケツ色
田村はテーブルに出来た水滴の輪を黙って見詰めていた。
「あ、別に言いたくないことを答える必要はないからね。僕の勝手な憶測なんて無視してももらってぜんぜん構わない。でもね、あんまり深く背負いすぎない方がいいことだってあると思うんだ」
田村は紙ナプキンを一枚手に取った。それをゴツゴツした指で意外なほど丁寧に二つ折りにするとテーブルの水滴をスイと拭った。そして、僕の目を正面から見てニッと歯を覗かせて笑った。
「シーナに知られちまったかあ」
「あ、いや、別に変な意味では……」
田村は、三好のやろうかー、などと独り言のように呟いていたが、嫌な顔をすることなくさばさばとした調子で話を進めた。
「そ、俺はあの日、凜乃と駅ビル行く予定だったんだよ。知ってる? 駅前の新しく改装したやつ」
「知ってる」
ていうか行った、とはもちろん言わなかった。
「でもって雨んなか急いでたら坂道ですっころんで。このざま」
田村は右肩のギブスを目で示した。ギブスはどうしてか田村の体を包む大切な防具のように僕には見えた。
「ちなみにその凜乃さんっていうのは?」
「おお、わるいわるい、野球部の一年マネージャー」
「そっか。それでその凜乃さんが野球部の部長の妹さんで、その部長がタケちゃんの幼馴染みなんだよね?」
「そう。っていうかシーナそこまで知ってんじゃん! なんだよ誘導尋問かよ」
言葉とは裏腹に田村は大口を開けて笑った。
僕の脳裏にあの日の田村の様子が思い浮かんだ。田村は重大な怪我をしているというのにやけに自分のスマホを気にしていた。あれは救急車を呼んで欲しいという意味ではなく待ち合わせをしていた人に何らかの連絡をしなければという焦りだったのだろう。
三好から聞いた話によるとその部長の妹さんも野球部を辞めるつもりということだった。
田村の感じている責任は自分の将来や家族の他に彼女の存在も大きく関わっているはずだ。
部長の妹にしてみれば、あの日、田村と会う約束をしたばっかりに彼は選手生命を失うほどの怪我を負い、結果、野球部はエースで四番の重要人物を失ってしまった。例の三人の約束だった全国への道も堅く閉ざされてしまった。彼女は彼女なりに激しい自責の念にさいなまれたはずである。それゆえの退部の意向だと考えられる。
そして、彼女の負ってしまった責任は坂道でこけて怪我をした田村本人にとっての激しい後悔へと跳ね返っているはずだった。
「だけどねタケちゃん。さっきタケちゃんは今回のことはしょうがないって言ったけど、それは誰かが一方的に責任を背負うとかいう話ではないと思うんだ」
田村は目を瞑っていた。
「だから、その、タケちゃんが本当に辞めたいのでなければそうする必要も、もちろん部長の妹さんだって続けていたっていいと思うんだけど……」
外野からの口出しであることは分かっていたけれど、僕は田村に対して感じたひとつの共感だけをよすがにそう口にした。
田村はふうーっと息を吐き、氷だけになったグラスをカラカラと揺すった。
「ネリ、なんか飲み物取ってきてくれないか? あとそちらさんはえっと……」
「わたしはツェラ!」
「ああそうだった。申し訳ない、転んでから物忘れがひどくて。ツェラちゃんも一緒に行ってやってくれないか?」
「うん! ネリちゃん行こ!」
ツェラがネリの手を引いてドリンクサーバーの方へと駆けていった。ファミレスのなかを走るのは感心しないが、まあ僕と田村以外に認識出来る人間がいないのだから今は許そう。
「シーナ、いろいろ考えてくれてありがとな」
田村は申し訳なさそうな表情で僕を見た。
「いや、別にお礼を言われるだなんて。僕は勝手に考えてただけだし」
「でももう決めたんだよ。自分がどうするか」
「そうなんだ……」
田村は左手で畳んだ紙ナプキンを弄んだ。
「部内恋愛禁止だなんて、ほんといまどきって感じだよな。うちの野球部っていまだに全員坊主なんだぜ? 全国でもこんな高校珍しいって。悲惨な話だよまったく」
「それは同情するよ」
「ま、それを律儀に守り続ける俺らも大概だけどな。あ、俺と凜乃は別に付き合ってるとかじゃないのよ、念のため」
「うん。規則は守ってるってわけだね」
限りなくクロに近いグレーかもしれないが。
「ただ……、悔しいっちゃ悔しいけどね」
田村は水分を含んだ紙ナプキンで跡など無いはずのテーブルを何度もゴシゴシと擦った。
僕はかける言葉を失い、田村もまた口を噤んでいた。
「はい、鮎川くんどーぞ!」
目の前にドリンクバーのグラスが置かれた。溢れる寸前までなみなみと湛えられていたそのドリンクはとても飲み物とは思えない色をしていた。
「ツェラ、これって……」
「ツェラ特製の気まぐれコーヒー、ミルクを添えて、だよ!」
ミルクは添えられておらず既に投入されている。それに表面から炭酸の泡の弾けているコーヒーは初めてだ。
奇妙に甘くて苦い飲み物を口に含んで田村を窺うと、ネリは順当にコーラを単体で注いできたらしい。
「姉さんのそういう無邪気なところ、心から感心しますわ」
ネリはそう言って横から田村を見詰めた。田村は苦笑いしながらストローでコーラをちびちびと啜った。田村は田村で本当はコーラを何かで割ってほしかったのではなかろうか。
少しがっかりなドリンクを飲みながらも、僕は張り詰めていた空気が徐々に和んでいくのを感じた。強烈な炭酸だっていつかは無くなるし、どんなに苦いコーヒーだってジュースで割ってしまえばとりあえず甘くなる。
「そうそう。ともかく俺は決めたのよ」
深刻さゆえに既に終わった話題だと思いきや意外にも田村は話を戻した。「ん?」
田村はストローを置いてグラスから直接コーラを一気に飲むと、ネリに目配せをした。その視線にはこれから行われるであろう何かしらの企みが表れていた。
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