第35話 片手で食べられるもの

 田村との会合からさらに数日が経った。

 たまに雲のあいだから晴れ間が覗いたかと思うと、降り注ぐ日差しにはギラつきが混じり始めており、湿っぽい教室はいよいよ蒸し暑さを増していた。

 この高校の教室にはいまだに空調設備が無い。公立だからという理由とも言えない理由によって僕たちは無理矢理に状況を納得させていた。それにしても暑いものは暑い。

 全開にした窓のそばでワイシャツをはだけ下敷きでバサバサ仰いでいるのは朝練を終えた運動部の面々である。それが女子であれば目のやり場にも困るところだが、残念ながら、もとい幸いにしてそのような豪放な女子は少なくともこのクラスには存在しない。僕の瞳はいまだ純潔を保たれている。

 こうなってくるといっそう暑苦しい三好を含む野球部連中も例に漏れず練習後の体をさらけ出して雑談に興じている。そこからは十分に距離を置いた席では登校するなりヘッドフォンを装着した田村がスマホに見入っている。この蒸し暑い教室においては右肩を覆うギブスに加えて巨大なヘッドフォンがほとんどガマン大会の様相を呈しているが、彼に声をかけるものは一人としていなかった。

 彼の〈絶望〉であるネリとはあの後も何度か会ったけれど、教室にあまり入りたがらないのはツェラと共通しているようだ。ツェラとは今日も下駄箱の手前で別れた。ネリが来たら一緒に校内を回るんだと朝から意気込んでいた。

 そして、今日は僕にもひとつの計画があった。

 田村が本当に野球部を辞めたいと思っているのか、本人に気持ちを確かめてみたかった。

 きっと出過ぎた行為だろう。そればかりか田村の気分を害するかもしれない。だいたい僕がそれを確かめてどうするつもりだという話でもある。

 けれど、僕にはどうしてもそれを田村じしんの口から聞いておかなければならないように思われた。田村はこないだ野球部を辞めるとはっきり言った。だが、辞めたいとは言わなかった。どちらかといえばそうせざるを得ないという口ぶりだった。

 さらに僕を突き動かしたのは怪我をした後の田村に対する野球部の態度だった。怪我のせいで部活に参加できないのはしょうがない。けれど、だからといって普段の生活からシカトというのはとうてい納得できるものではない。

 込み入った話になるかもしれない。あまり多くの人に聞かれたくない内容でもあるだろう。

 それよりも元来が小心者に出来ている僕としては周囲の目が気になるところである。

 田村とじっくり話をするとすれば昼休みに人目のつかない場所に呼び出すか、そうでなければこちらから放課後のファミレスにでも誘うか……。

 と迷っている間に午前の授業はつつがなく終わり、昼休みの時間がやってきた。

 まずは教室内の動向を窺う。

 三好をはじめとした野球部員はがやがやと連れだって教室から出ていった。おそらく購買にでも寄ってから部室で食べるのだろう。

 田村はまだ席を立たない。バッグの中をまさぐっている。やがて昼食の入っていると思しき包みを机の上に取り出した。

 ここ最近の通例として田村は教室で弁当を、正確に言うと持参したサンドイッチを食べる。なるほど利き手に怪我をしていては箸は持ちにくいだろうし、わざわざ購買まで出向いていってパンを買うのも面倒だろう。

 今日も田村に近づく生徒はいないようだ。これでいい。まずは無理せずに弁当を一緒に誘い、会話の中でそれとなく話を振ってみて、とりあえず端緒だけでも掴めればそれで十分だ。いきなり突っ込んで根掘り葉掘り聞き出すのはそれはそれで不躾というものだろう。

 だがその前に済ませておきたい案件が生じている。授業の途中から僕の膀胱がはち切れんばかりにパンパンなのである。いったんこれを落ち着かせなければ話にもならない。

 ということで僕はトイレに立った。そして、清潔な空間で無事に小用を済まし、教室に戻ると僕の席にはツェラがちょこりんと座っていた。

「来てたんだ。今日は弁当あるんだっけ?」

「うん。有以さん特製の唐揚げも入ってるよ」

「おお唐揚げかあ! 久しぶりだなあ。ツェラも手伝ったんだ?」

「うん。昨日の夜から味付けしてあるから香りもバッチリだよ!」

「サンキューサンキュー。よし、それじゃあその特製唐揚げを僕も美味しくいただきますかな。あ、そうだ。田村く……、じゃなかった、タケちゃ……」

 さっきまで田村の座っていたその席を見るとそこは既にもぬけの殻であった。机からはサンドイッチの包みも消えている。

「あれ!? タケちゃんさっきまでそこにいなかった?」

「田村くんならネリちゃんと一緒にお昼食べに行ったけど」

「えっ、どこに?」

「たぶん中庭のベンチだと思うよ。授業のあいだネリちゃんとあちこち学校を回ってね。中庭のベンチで、あーここでサンドイッチ食べたら気持ちいいだろうなーってわたしが言ったらネリちゃん、わーって。武人さま、お昼はサンドイッチだから一緒に食べるんだーって」

「へえ、ネリさんが」

「そう。もうネリちゃんフフーって鼻息まで荒くなっちゃって。ついさっき田村くん引っ張って行っちゃったよ」

「そっか」

 そんなネリの様子は想像できないが、そうまで言われては二人の昼食にお邪魔するのは気が引ける。

 それにしても昨日の夜から一人で勝手に高ぶっていただけに出鼻を挫かれた気分である。仕方ない。いつも通りツェラと気兼ねなく弁当を食べるか。

 自分の席についてもじもじと弁当の包みを解いていると突然ツェラが机の横にすっくと立ちはだかった。

 どうした? 僕は彼女をポカンと見上げた。

 ツェラはそのまま目を瞑り、天井に向かって両手をスッと伸ばした。


『驚いて見るとそこにいたのは野球部の三好であった。』


「鮎川っち、飯食おうぜ」

 え?

 三好ならさっき野球部の連中と一緒に教室から出ていったんじゃ……。

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