第34話 絞ってあなたの好きなだけ

 田村のグラスにはオレンジジュースのコーラ割り。僕のグラスにはアイスコーヒーにガムシロップとミルクが3個ずつ。両手にドリンクを持って席に戻るとスプーンに山盛りに乗せた生クリームをツェラから突きつけられてネリがおおいに困惑していた。

「ほらっ、美味しいよ! フルーツの汁が混じってて!」

「いえ、わ、わたくしは平気ですから」

 田村がその様子を見てはははと笑っている。

「まあまあ。ツェラ、無理して勧めるなって」

「じゃあ鮎川くん。まだ食べてないでしょ、はいっ!」

「いやいい、いい! 自分で食べるから」

 いくらおのれの〈絶望〉とはいえ人前で差し出されたスプーンをくわえるわけにはいかない。

 ツェラの手から受け取り僕はパフェ口に入れた。懐かしい甘さが舌に広がった。パフェなんて食べるのいつ以来だろうか。僕はささくれ立った気分が少しだけ落ち着いた気がした。

 ツェラはアイスコーヒーに当たり前のように僕が持ってきたシロップとミルクをすべて注ぎ込んだ。ストローでくるくるとかき回してから嬉々としてそれを啜り込むツェラの様子を僕たち三人は半分は微笑ましく、もう半分は呆れながら眺めた。

「そうだ、田村くん」

 僕はこのあいだ三好から聞いたレイボの件について確認しておこう思った。僕から田村宛にレイボを送ったとかいうあの話だ。

 しかし、僕の口をついて出たのは思いもよらない言葉だった。

「あの、野球の方はどうするの?」

 言った自分が一番驚いた気がする。

 そんな僕の内心に気が付いた風も見せず田村はたんたんとした口調で答えた。

「辞めるよ。もう投げられないから」

「そっか……」

 詰まらないことを聞いたうえに僕は言葉をなくしてしまった。

「医者の話では日常生活に支障が無いくらいまで回復するらしいけどね。リハビリすればキャッチボールくらいはって言われたけど、ま、慰めだろうね。いずれにせよ俺にはもう間に合わないし」

 間に合わないというのは今度の大会のことを指しているのだろう。

「じゃあ部活は……?」

「部も辞める。戻れないから」

「そっか……」

 こういう場合に当事者よりも周囲の人間の方が沈痛な気持ちになるのは本当にやりきれない。隣で話を聞いていたツェラもさすがにスプーンを握る手が止まってしまった。

 当の田村とネリはというと、今晩のおかずを訊かれたからコロッケだと答えたというほどに何気ない様子で、顔色ひとつ変えることをしなかった。ネリはオレンジジュースを、田村はグラスの水を口に運んだ。田村が口に含んだ氷をゆっくりとかみ砕く音が僕の耳に微かに届いた。

「田村くんがそれで良いなら、僕は別に」

 僕はやっとそうとだけ言った。

「ああ。気にかけてくれてサンキューな」

「うん」

「あとその、田村くんって呼び方、なんかこそばゆいんだよねえ。くん付けで呼ばれんの慣れてなくてさあ」

「ああ……」

 言われてみればクラスの中でも田村くんという言葉はあまり聞いたことがない気がする。

「せっかくだから鮎川くんもみんなと同じように下の名前で呼んでよ」

「え、じゃあ、ええと武人くん、だっけ」

「タケちゃんでいいよ」

「タケちゃん?」

「そうそう。なにしろ一緒に救急車に乗ったマブダチだからさ」

 マブダチという時代がかった言葉が通報者と搬送者の関係にも適用されるものか僕には分からなかった。

「でさ。代わりにっちゃあなんだけど鮎川って名字ずっと気になってたんだよねえ」

「え? あ、そう。まあそこまでありふれた名字でもないかもしれないけど……」

「なんかロックだなってずっと思ってたんだよ」

 鮎川がロックだとは僕の知識には無かった。

「だからさ、鮎川くんのこと今度からシーナって呼んでいい?」

「シーナ? なんで?」

「いやいや、レジェンドでしょう。ジャパニーズロックの伝説だよ!」

 よく分からないが田村がそう呼びたいのなら僕は構わない。

「別に良いけど」

「よし! そうと決まればもう一杯いっちゃうか。シーナなにが良い? コーラ?」

「いや、ええとカルピスソーダで。あ、ていうか田村……、じゃなかったタケちゃんは座っててよ」

 なんとなくうやむやになったまま田村の部活の話が蒸し返されることはもう無かった。

 さして重要でもない、いわゆる雑談を楽しみながら時間は過ぎていった。ドリンクバーを何度かお代わりし、ほとんどツェラによって平らげられたフルーツパフェの最後の一口を僕が飲み込むとその場は解散の運びとなった。恐縮する僕を制して先に立った田村が会計を済ませた。そのあいだにも彼の視線が野球部のテーブルへと向けられることは一度も無かった。

 途中までは四人で歩いて帰った。四人のなかで僕だけが自転車を押していた。やがて田村にとっては将来を決することになってしまった例の坂道のふもとに差しかかると、じゃあ俺たちはあっちだから、と田村とネリはそのまま真っ直ぐ通りを進んでいった。急な坂道を僕とツェラは並んでゆっくりと上がっていった。

「ねえツェラ。タケちゃんのことどう思う?」

 ツェラは自分の歩くつま先を見詰めていた。

「うん。野球がやれなくなってやっぱり可哀想な気がする」

「本当は部活に戻りたいんじゃないかな」

「そうかもしれない。でもわたしには分かんない」

 ツェラはおそらく正直だった。

「でもネリが現れたってことはタケちゃんも〈絶望〉したってことだよね?」

「うん、そうだよ」

「それに……」

 僕はまたも野球部たちの不可解な態度を思い返していた。けれど、この話をツェラにするのはなんだか違う気がして僕は口を閉じた。

 しばらくは僕もツェラも黙ったままだった。カラカラと自転車のチェーンの空回りする音だけが夕暮れの静けさに鳴っていた。

「でも新しい友だちが出来てわたしは嬉しいな」

 ツェラは足下に目を向けたままそっと笑顔を見せた。

 そうか。彼女にとっては僕以外に初めて自分の存在を認識してくれる相手が出来たんだ。

「そうだね。また二人と話せたら良いね」

「うん!」

 ツェラは坂道の頂上へと顔を上げた。

 昼間の熱気がまだ道路脇の木陰に居残っていた。もうそろそろこのあたりにも蝉時雨が到来するだろう。

 

 家に帰るとツェラは当たり前のように夕食をお代わりした。 

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