第32話 絶望するのは君だけじゃない
田村はガッチリ握っていた手を離すとわるいわるいと潤んだ目頭をその袖で拭った。
「もう分かったと思うけど、こいつは俺と鮎川くんにしか見えてない」
「あ、うん」
え?
「でもって、鮎川くんの横に座ってるその子も俺と鮎川くんにしか見えてないはずだ」
「えっと……」
僕は困惑するしかなかった。
まさか……。田村にはツェラが見えている?
するとそれまで田村の言葉を黙って聞いていた隣の少女がどこか業務的な口調で話を引き継いだ。
「わたくしは武人さまの〈絶望〉。あなたの隣にいらっしゃるそちらのお方と同じです」
「あ、ああー……。って、ええっ!」
思わず絶句した僕に向かって田村は喜びを隠すことなく話し続けた。
「いやー。俺も驚いたよ。ベッドに寝てたらいきなり病室にこいつがやってきてさ。わたくしは〈絶望〉だとか言い出して。最初は意味わかんなくて、周りに説明しても誰も信じてくれないしさ。おかげで別の検査のために入院が一日延びたんだから」
ああ。気落ちは分かるよ。
「でも鮎川くんがいてくれてホッとしたよ。本当に自分が狂っちまったんじゃないかって不安だったからね。それでその子が君の〈絶望〉さんだろ?」
僕の横ではツェラがくねくねと身をよじりながらえへへーと照れている。
「あ、うん。彼女はツェラ。僕のとこに来たのは、ええと、ひと月くらい前かな」
「はじめまして、わたしはツェラです。今後ともよろしく!」
僕の〈絶望〉は律儀に挨拶をしてみせた。
田村はまだ一人でいやーなどと言って同士と出会えた感動を噛みしめていた。その隣で妹、ではなかった、田村の〈絶望〉が目の前で照れ続けるツェラを希少な動物を観察するような目付きで眺めていた。
「あ、そういえばえっと、田村くんは、なんでツェラのことが分かったの?」
僕は素朴な疑問をそのまま口にした。
「それは……」
田村の言葉を彼の〈絶望〉が遮った。
「それでしたら簡単なことです。わたくしがわたくしより先にやってきた〈絶望〉の存在を知っているのは当然のことなのです」
「先に来たって、ツェラのこと?」
「ええ。だからツェラさんはわたくしにとってはお姉様のようなものなのです」
「お姉……、様……」
ツェラの顔が感動ですごいことになっている。
田村はそんな二人の様子をうんうん頷きながらとても穏やかな瞳で眺めている。まるで父親のような目線で。
状況を飲み込むために僕はグラスの水を音を立てて飲んだ。とりあえず田村にツェラが認識できているということは彼らの言うことを信じるしかない。
そういえば新たな〈絶望〉の登場にツェラが僕ほどの驚きを見せないのは、ツェラが既に彼女の存在に気が付いていたということだろうか。それならそうと言ってくれれば良いものを。
「ねえツェラ。ツェラもこの子がやってきたことはもう知ってたのかい?」
「ん? あーえーとー。うん、そうだね、たしかに!」
ダメだ。妹キャラが現れたことで完全に頭に春が到来している。
ようやく思い出したように田村がちょっと飲み物取ってくるよと腰を浮かせた。
「あ、田村くんは座ってて。怪我してるんでしょ、僕が持ってくる。何が良い?」
「すまんね。何でも良いよ。何でもコーラで割ってくれれば」
何でも良いのコーラ割りね。僕は田村のグラスに溜まったよく分からない色の液体を理解した。
君は水だけで良いのかい、と言おうとして気が付いた。
「あのー、田村くんの〈絶望〉さん。もし良ければ名前を訊いて良いかな?」
田村が目で合図すると彼女はしっかりとした口調でその名を告げた。
「わたくしはネリと申します」
「うん! わたしはツェラ!」
大丈夫。君の名前はさっきの流れで全員知ってるから。
同じ〈絶望〉でもネリとツェラとでこうも違うのかと、それこそ不肖の子を持つ親の気持ちで僕はドリンクバーのサーバーへと向かった。
僕が戻るとテーブルの雰囲気は入店時とは打って変わって和やかなものになっていた。
田村は〈絶望〉のやってきたのが自分だけではないと確認できて舞い上がっていたが、僕の注文したフルーツパフェが運ばれてくると当初の目的を思い出したといったふうに僕への謝辞をあらためて述べた。僕が救急車を呼んでくれたおかげで本当に助かったと。鮎川くんは命の恩人だと、そんな大袈裟な台詞まで口にして僕を恐縮させた。
ツェラはさっそく僕のフルーツパフェを横からつつき、両手で頬を押さえて目を輝かせていた。
ネリと名乗った〈絶望〉はそんなツェラの様子をしっかり者の妹といった様子で見詰め、ツェラの頬に着いたクリームを指摘する度にツェラ姉様と呼んではツェラのことを何度もくねくねさせていた。
それはそうと僕には思うことがあった。
田村の元に〈絶望〉がやってきたということは、とりもなおさず田村が深い〈絶望〉を抱いたということを意味している。つまり、危惧したとおり彼の右肩は再びピッチャーとしてマウンドに立つ能力を失ってしまったということだろうか。
田村はドリンクバーをがぶ飲みしながらさっき受けてきた補習のことなど何気ない事柄を話題にのぼらせた。慣れないながら僕もそんな高校生らしい日常会話を楽しんだ。そうして、嫌でも目を引く彼の右肩のギブスに話が及ぶことを慎重に避けた。
「あ、奥のほう空いてんじゃん」
そんな声がして何気なく入り口へ目をやってから僕は、まずい、と心の内で呟いた。
僕らと同じ高校の制服を着た男子生徒が数人でどやどやと入ってきた。中に同じクラスの三好が含まれていることを確認するまでもなく、彼らは田村の所属する野球部の部員たちであった。
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