第30話 本当は冷たい川に棲む

 約束の時刻までにはまだまだ時間があった。

 海に棲む生き物の図鑑ときたら見逃すわけにはいかないページがある。そう、深海生物のページである。彼らは日光の届かないほど深い水域に生息しているので目が退化していたり、外見がとんでもなく奇怪な形状だったりと独特な進化を遂げている。異常に巨大だったりするのも魅力だ。

 ん? そういえばあれなんだっけ? あのいかにも深海に棲んでいそうな細長くてニュルニュルした、水棲なんだけどサンドワームみたいな顔をした……。

 僕はしばらく頭を捻った。

 そうだ、ヤツメウナギだ!

 一部の地域では干して食用にしているという信じがたい一面も持つその生物の名を索引からウキウキと探していると後ろからトントンと肩を叩かれた。ツェラが戻ってきたらしい。

「ちょっと待って、いまヤツメウナギっていう面白いやつを……」

「ん、なにウナギですか?」

 え? と振り返るとそこにいたのは朝吹さんであった。

「ああっ、すみません!」

 僕は慌てて図鑑を閉じた。その表紙には口をガバッと開いたカサゴが大写しになっており、だったら文字だけの索引のページを開いていた方がマシだったかと後悔したがそれも遅かった。緊張と恥ずかしさに一瞬で顔面に血液が集まる。

「いえ、こちらこそ急に声をかけてしまってごめんなさい。でもなんだか楽しそうだったから」

 やはり熱中しすぎて表情に出てしまっていたか。ツェラが席を立ったおかげに目の前がノーガードだったというのになんたる不覚だろう。額には汗まで滲んできた。

「あ、いやあ、なんていうか。こういうのってたまに読みたくなっちゃうんだよねえ……」

 口調まで言い訳じみてしまう。

「あ、はい。わたしも好きですよ、そういうの」

「あ、あはは」

 朝吹さんの優しさの前でさっそく自分が死にたくなっている。

 ほんの少し訪れた沈黙のあと、朝吹さんは、あの、と僕の目を見詰めて言った。

「ここに来るのってお久しぶりですか? 以前はよく来てくれてたけれど」

「そーおですねーえ」

 半分頭を沸騰させながら訳もなく天井に視線を逸らせた。天井にはついぞ回っているのを見たことがない扇風機の羽根が今日も止まっていた。待てよ。僕は思い至った。ということは朝吹さんは以前から図書室に通う僕の存在を認識していたということだろうか。

「あの、知ってたんですか僕のこと?」

 直截に僕は訊いた。

「はい。図書室に定期的に来る人はだいたい覚えているので」

 図書委員の鏡のような人だ。そういえばこないだの体育祭で黒田と三人で話したときだって朝吹さんはそこまで他人行儀な態度ではなかったかもしれない。そう思うと僕は少し調子に乗った。

「あの、朝吹さんは本とかよく読まれるんですか?」

「あ、はい。本好きなので」

「それじゃあ、えと、何かオススメの本とかあります?」

「オススメ、ですか……」

 朝吹さんは頬に手を当てて思案顔を作った。

 しまった。調子づいた僕は二言目にしてさっそく愚劣な質問をしてしまった。

 ほとんど初対面の人間に対して漠然とオススメ本を訊ねる。これは一番やってはいけないことである。

 本とは良いものもそうでないものも数多を読んだうえで初めて自分の審美眼が養われ、おのれの嗜好性が身に付くというものである。それを相手が本好きだからといって即座にオススメを訊ねるというのは自らの探究心の放擲であり、労せず良作にありつこうという浅ましさの表れである。しかも人それぞれ好みは異なるものなのだから相手もうっかり答えたところでそれが地雷にもなりかねない。

 なんという最悪のことを言ってしまったのか。みずからの犯した過ちに頭を抱えていると朝吹さんは、あ、と声を出した。

「外文とかって読みます?」

「海外文学ですか。普段はあんま読まないけど、でも読みます!」

 僕は精一杯に答えた。ひとつ言い添えておくと、あんま読まない、ないしは、ちゃんと読んだことはない、というのはまったく読んだことがないの婉曲的表現である。

 じゃあ、と言って朝吹さんはカウンターの方へと急ぎ足で歩いて行った。そして、イスの下辺りをしばらく探っていたかと思うと一冊の本を抱えて戻ってきた。

「アメリカの作家なんだけど、どの話もすっごく変わってて面白いかなって。短編集だから読みやすいし、もし良かったら」

 僕は思わず朝吹さんの目をまっすぐに見詰めてしまった。

「いいんですか?」

「はい。わたしはもう読んだので」

 朝吹さんからその本を手渡しで受け取った。

 あの朝吹さんから本を借りてしまった。ついにこの日が来たのだ。僕の脳内で豪華客船が汽笛を上げて出航した。皆の者、青春時代へ舵を切れ! ヨーソロー!

 さらに本を借りるということはそれをまた持ち主へ返すということをも意味している。つまり再びの交流を約束されているということだ。

「じゃあ読んだらすぐお返しします!」

 僕の声は高らかだった。

「うん。貸し出しの手続きはこちらでしておくので」

「え?」

 興奮のあまり汗で湿りつつある手中の本をひっくり返すと裏表紙には我が高校の名前と配下番号の記されたシールがべったりと貼られていた。

「返却は二週間以内にカウンターへ持ってきてもらえば大丈夫だから、急がず暇があったら読んでください」

「あうん。どうもありがとう」

 うん、と笑って朝吹さんはカウンターへと去っていった。と思うや、足を止めると再び戻ってきた。

「貸し出しなんだけど、鮎川篠生さん、でしたよね?」

「あ、はい」

「番号探して登録しておきます。ごめんなさい、自己紹介もせずにわたしばっかり喋ってしまって。あらためてわたしは朝吹実梨です。良かったらまた定期的に図書室通ってくださいね」

 そう告げると今度こそカウンター業務へと帰っていった。

「いやー、楽しそうな本がいっぱいで迷っちゃったあ!」

 ツェラが両手に抱えきれないほどの本を机にドサッと置いた。

「ねえツェラ」

「なあに?」

「社交辞令を本気にするやつはバカだと思うかい?」

「しゃこーじれー?」

 目の前に積まれた本の山がいっそう高々と僕の視界を遮った。

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