第29話 図鑑という名の
二週間も学校を休んだ田村は放課後に補習を受けることになっていた。つまり、田村とのファミレスの約束時間まで僕には空いた時間が出来てしまったわけだ。
教室には放課後も居残ってひたすらにお喋りを続ける女子グループがいるのでいずらい。かといっていったん家に帰るというのはなんとなく逃げ腰な気がする。
ということで僕はおよそひと月ぶりにここへやってきた。
図書室だ。
ツェラが能力を使って大雨を降らせて以来の訪問となる。そこへ向かう廊下の風景が既に懐かしさを感じさせる。
かつては毎日のように触れていた引き戸を開ける。中に足を踏み入れるや僕は素早くカウンターに目を走らせた。
いた。
もちろん知っていた。今日はあの人が図書当番の曜日だと。カウンターで百合の花の芳香を薫らせているのは朝吹さんその人であった。
僕の足は自然と窓際へ向かった。しかし、僕はかつて自分がほとんど占有のように座っていた席が別の生徒によって使われてのに気が付いた。僅か一ヶ月の間に図書室内席取りの勢力図が変わっていようとは。図書室の陣取りひとつとっても生き馬の目を抜くような時代である。
これが図書館戦争か……。おそらく間違ったことを呟きながらぐるりと見回すと、今日に限ってどの席も絶妙な距離感を保ちつつ放課後のソリストたちによって占拠されている。となると空いているのはカウンター前の机のみ。僕は仕方なくそこを選んだ。
ここで背を向けるのではなく、敢えてカウンターに対面する位置に座ったのには訳がある。
かつての自分なら迷わずカウンターに背を向けたであろう。正面に朝吹さんなんていう花が咲いていたらどうしたってチラチラ上目遣いを使わないわけにはいかない。どうせ直接口などきけないのだから、そんな態度が朝吹さんに嫌悪感どころか恐怖心まで与えてしまったら最悪中の最悪である。加えて、読書でも創作でも構わないがソロ活動に励んでいる際の極私的なハイ状態にふと他人と目が合ったときの気まずさは相当なものである。口元にはうっすら笑いさえ浮かべていないとも限らない。ましてその相手が朝吹さんだったなどという日には僕は立ち直れないかもしれない。
しかし、今日は僕と一輪の花とのあいだの壁になってくれるものがいる。
「ツェラ、僕の正面に座っていてくれないか?」
「へ? うん分かった」
むろんツェラの姿は朝吹さんに見えないのだから、純粋に壁とは言えない。だが少なくともこれで僕が朝吹さんをチラチラ見なくて済むし、いちおう正面に別の目があることによって気味悪い薄ら笑いの抑制が期待できる。なおかつ、入り口ドアにも正対しているので生徒の入退室にもそれとなく気を配れるうえにほんの少し顔を傾げればカウンター内の状況も確認できる。芳しい花に悪い虫が付かないよう見張ることが可能となる。
なんという策士。ピンチをチャンスに変える絶好のポジションである。
さて、と一息ついたところで何をしようか。
スマホをいじって時間をやり過ごすのはなんとなくかっこ悪い。ということでここは原点に帰って本を読もうと思い、落ち着けた腰を上げて書棚を巡ってみることにした。
ほんのひと月前まで毎日のようにこの図書室に通っていたとはいえ、ほとんど持参したタブレットで執筆するばかりだったし、たまに気分転換に席を立っても眺めるのは小説とライトノベルの棚くらい。他のジャンルの棚には見向きもしなかった。
こうしてあらためて回って見ると小さな高校の図書室といえども実に多種多様な本が棚に詰まっている。小説から実用書、語学書や各種科学の専門書。判型が大きくずっしり重い美術書や写真集。高校らしくビジネス書や就職に関する書籍も並んでいる。いくつかの候補を保留にしておきながらいまひとつ決まりに欠けるなとぐるぐる歩いていたところ、ふと僕の目を捉えたものがあった。それは生物学のコーナーの一角を占める図鑑である。
「図鑑。そういうのもあるのか」
思い出した。僕は小さな頃から図鑑が大好きだったのだ。
久々に目にした生き物の図鑑には無性に僕の心をときめかすものがあった。よし、これにしよう。今回の場合を考えてもストーリーのある小説と違って適当なところで自由に切り上げられる図鑑は都合が良い。
生き物の図鑑といっても様々である。眺めていてもっとも楽しいのはやはり形状や色彩の多様性で群を抜く虫の図鑑だ。さすが高校の図書室だけあってそれぞれの虫に特化したものもあり、好蟻性昆虫というアリとの共生関係を持つ虫だけを集めた図鑑まである。しかし、たいへん遺憾ながら世間的には虫はキモいものと相場が決まっているので、特に朝吹さんの目の前という慎重を期したい状況の本日はあえなく却下。またいずれ。
両生類と爬虫類の図鑑も嬉しい。サバクツノトカゲのトゲトゲに憧れ、ボール状に丸まったボアに戦いたあの日。ヤドクガエルが空から大量に降ってくるのを想像しては心を震わせたのも懐かしい。だがしかし、これらも虫と同じ理由によって涙と共に見送る。
となると本日のチョイスはこれだ。
魚および海洋生物の図鑑。
海の生物には他のものとはまた別種のロマンがある。ある種の深海魚を除けば魚類は一般的に気色悪いと忌避されるようなものではない。熱帯魚は観賞用として病院の待合室にさえ置かれているし、水族館なんかはカップルや親子連れにも人気のことだろう。なによりこの図鑑にはウミウシがいる。その鮮やかで奇抜な見た目は想像主の気紛れかと疑うほどにポップでキュートだ。女子受けのポテンシャルでいったらサーティーワンアイスクリームに匹敵すると考えているのは僕だけだろうか。
ということで机に持ってきた海洋生物の図鑑を僕は繙いた。
他のほとんどの書籍と異なり図鑑は最初からページ順に律儀に読んでいく必要が無い。たまたま目に付いたページから始めても良いし、ページを飛ばしたって構わない。こんな自由さがしばらく読書から遠ざかっていた僕にまるでリハビリのような感覚を与えてくれた。
もう少しだけ講釈を許してもらいたい。
書籍タイプの図鑑のページを繰っていてあらためて実感したその魅力。それは制限された情報量にある。
物理的な制約によりたいていの図鑑では一種の生物につき図版は一枚。そこに体長や生息地といった基本情報と僅かな説明文が付されている程度である。詳細な生活史も記されていなければ迫力ある捕食の動画も付いていない。
だがそれで良い。そこが良い。
図版や数行の文章から読み取れる限りの情報を読み取り、あとは想像力を働かせる。多くが語られないからこそ、そこには想像の余地が生まれる。想像や空想は決して少年にのみ許された特権ではないのだ。
最近ではAR機能付きの図鑑も増えている。もちろん良い部分もあるだろう。しかし、あくまでも個人的な意見ではあるが拡張は必ずしもすべての図鑑にとって有益になるとは限らない。
「ちょっとわたしも本見てくるね」
ちょっと難しい顔をして図鑑に没頭しすぎてしまったか、ツェラが席を立っていった。僕の雰囲気からツェラの好奇心が刺激されたのだと良い方向に考えたい。だが目の前ががら空きになってしまった。ほんの少しだけ目を上げるとカウンターの中では朝吹さんが下級生と思しき女子生徒の貸し出し手続きの応対をしていた。
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