第28話 近づかない者は君子でありうるのか

 田村が学校を休み始めてから二週間が経った。

 いつも通り昇降口でツェラと別れ、自分の昼食の入った包みをぶんぶん振り回しながら陽気に歩いて行くツェラの後ろ姿を見送った。汁気の多いおかずが入っていないか心配である。

 これまたいつも通りの薄暗い下駄箱で靴を履き替えて教室へと向かう。階段を上がって角を曲がり、さて目指す教室はその先だと顔を上げたその時だった。生徒のたむろする廊下のど真ん中をひとりの少女が歩いてくるのが見えた。

 見慣れない制服からこの高校の生徒ではないことはひと目で分かった。小さくて華奢な体格やあどけなさを感じさせる顔つきから判断するに中学生だろうか。校内なので制服かと思ったがよく見ればそれは黒を基調としたドレスで、袖や裾にやたらと装飾の付いた、いわゆるゴスロリと呼ばれるような服装である。

 僕はハッと思い出した。

 間違いない。あの子は二週間前に病院の出口ですれ違った田村の妹だ。

 一度会ったことのある子だと知れると自然と警戒心も解かれる。しかし、彼女が近づいてくるにつれ僕は思わず足を止めた。彼女からは異様なオーラが放たれていたのだ。そのせいかあんなに目立つ格好をしているというのに廊下にたむろする生徒は誰ひとり話しかけるどころか視線を向けすらしない。

 そうこうしているうちにあっという間に彼女との距離は縮まり、立ち止まったままの僕の横を彼女は風のようにすり抜けた。と思うや、すれ違うその瞬間、彼女からは鋭い視線が僕の眼球めがけて射られ、僕は思わず、うっ、と唸ってしまった。

 田村の妹はそのまま歩みを緩めることなく階段を早足で駆け下りていった。

 呆然とすることしばし、ハッと我に返った僕は田村が本日から登校しているのではないかということにようやく思い至った。だから妹さんが付き添いで教室まで付いてきたのではなかろうか。中学生女子にとって高校の校舎が気の休まる場所であるはずがない。もしかしたらデリカシーの無いクラスメートにあれこれ訊かれたのかもしれない。だからあんなにも気を張って廊下を歩いてきたのではないか。

 やっぱり下手に話しかけなくて正解だったかもな。

 教室のドアを開けると、予想通り田村の姿があった。数名のクラスメートに囲まれて一様に気遣いの声をかけられている。ケガをした翌日はどこか熱を帯びた、ある意味ではドーナツ屋のオープンにも等しい口調で彼を話題に上げていた彼らだが、今日はさすがにその雰囲気は感じられない。というのも、ひと目見て軽くのけぞるくらい、田村の右肩から上腕部にかけては巨大なギブスでガチガチに固められており、誰の目にも彼のケガがただ事ではないことが知れたからである。

 田村の周りで心配そうに声をかけるクラスメートだったが、その誰もが野球部のことに話が及ぶことを周到に避けていた。

 しばらくの部活動休止は当然として、ひょっっとしたら田村の選手生命そのものが危ういのではないか。誰もがそれを直感し、自分の口からそれに触れることが第一級の戦犯にでもなるというふうに、核心には決して至らない当たり障りのない言葉を持て余し気味に繰り返していた。

 教室の雰囲気はまるで何かの修行でもあるかのように重く沈んでいた。こんなときにムードメーカーの三好がいてくれたら……。そう思って僕はようやく教室に野球部の連中がひとりもいないことに気が付いた。やっと田村が退院できたというのにこんな日に限って朝練が長引いているのだろうか。僕は歯がゆい気持ちで彼らの到着を待った。

 ホームルーム開始のチャイムが鳴るのとほとんど同時に野球部が教室に入ってきた。そして、かれらは誰ひとり田村に声をかけることなく各々の席に着いた。

 あれ? と僕は疑問に思った。なぜ誰も田村を気に掛けないのだろう。首を回して振り向くと、田村は背筋をピンと伸ばしたまま濡れたような視線を机の上に落としていた。

 それからも野球部の不可解な行動は続いた。授業と授業の間の休み時間にも野球部の面々はいそいそと連れだって教室を出たり、イヤホンをつけてスマホを眺めたりと、まったく田村に近づこうとすらしなかった。田村も田村で、同じ部活動を励むクラスメートに話しかけようとはしなかった。

 そんなこんなで昼休みとなった。野球部はやはりそそくさと教室から離れた。その中で唯一あの三好だけが一瞬だけ田村に申し訳なさそうな目を向けてから仲間の後を追った。

 僕がどうこう言う筋合いは無いかもしれない。田村と野球部との間に何があろうと僕が何かを考えたり手出しをしたりする必要も責任もない。

 だが、不可解であり、なおかつ不快だった。

 腹に据えかねる思いを抱いたままとりあえず空腹を満たそうと僕はバッグから弁当箱を取り出した。そうだ、今日はツェラの分も一緒にバッグに入れてきたのだった。そろそろやってくる頃だろう。僕はスマホをいじりながらツェラを待った。

 不意に肩を叩かれて振り返ると、そこには田村の姿があった。

 あらためて見るそのギブスの大きさに僕は言葉を飲んだ。

「あっ、えっと……」

「鮎川くん、悪いな声かけるの遅くなって。ちゃんとお礼がしたかったんだけど」

「いや、いいよ別に」

 あの日の翌日、田村の母親が我が家を訪問した。僕と有以さんとは既にとても丁寧な謝辞とお礼の品とを頂いている。

「これは俺からのお礼だから。もし良かったら今日の放課後、ファミレスに付き合ってくれないか? 何でもおごるよ」

「えっ? まあ大丈夫だけど……」

 予想外のクラスメートからの誘いに僕は口ごもってしまった。さらに、田村はわざわざ声を潜めて僕にこう告げた。

「出来ればひとりで来てほしい。クラスの他のやつにはあんま知られたくないんだ」

「うん、別に誰にも話さないけど」

「じゃあ悪いけどそういうことで」

 ほとんど一方的に約束が取り付けられると田村は時間と場所とを確認し、左手に弁当の入った包みを提げて教室から出て行った。

 なんだか分からないうちに放課後に同級生とファミレスに行くという非常に高校生らしい予定が出来てしまった。僕の顔は呆けていたかもしれない。

 後ろからツンツンと突かれて慌てて見るとツェラであった。

「なんだツェラか」

 僕の暴言には反応することなくツェラはさっき田村が出ていったドアを不安げに見詰めていた。

「無事に退院したみたいだよ」

「うん、おっきな包帯してたね」

 ツェラの顔色は浮かない。

「心配するなって。あ、そうそう。今日なんだけど、放課後に田村と一緒にファミレスに行くことになってさ」

「えっ!? ファミレス? 田村くんと?」

 途端にツェラの表情がぱあっと変わった。

「うん。ドリンクバーとかあるからツェラでも何とかなるよ。一緒に行こう。楽しいぞお」

「そっかあ。はああ……、ファミレスかあ……」

 まるで夢でも見ているようにツェラは空中に視線をとろけさせた。この変わり身の早さになんだかんだ救われているのかもしれない。

 

 さて、問題は約束の時間までをどう潰すかだな……。

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