第25話 歩くたび音の鳴る床
事はいたってスムーズに進んだ。
到着した救急車から降りてきた救急隊員が吉岡の状態を確認し、患部に留意しながら担架に乗せて車内へ運んだ。それを脇でぼーっと見ていたら白衣ではなく作業着のような服装をした隊員から事故の状況を尋ねられた。自分は発見しただけで分からないと答えると案外簡単に納得された。ともかく付添人として同乗できないかと打診されたので頷き、僕は吉岡のバッグを持って救急車へ乗り込んだ。
車内では同じ隊員から田村との関係を訊かれた。まったくの他人ではないと見られたらしかった。僕は少しだけ躊躇した後に同じクラスの友人ですと答えた。あいにく自宅の連絡先は知らないので学校に連絡して良いかと田村の目を見ると田村はうんうんと頷いた。スマホをタップし学校への電話をしているあいだ、田村は苦痛に顔を歪めながらも律儀に救急隊員への礼を述べ、無理して喋らなくても良いという制止も聞かずに自分は坂道でハンドル操作を誤って転んだのだ、自分のミスでこうなってしまって申し訳ないと謝った。そして、学校への連絡を終えた僕に対してもきれぎれの声で礼と詫びの言葉を述べた。驚いたことにその中にははっきりと、鮎川くん、と僕の名前が含まれていた。
幸運なことに現場からもっとも近い病院が受け入れ先になってくれた。到着するや田村は院内に運び込まれ、僕には田村の荷物が託された。僕は慣れない病院の受付カウンターの前で田村の家族を待つこととなった。
目の前には病院特有のリノリウムの床が伸びていた。ビリジアンに白を溶かしたような色のソファーは端っこが破れ、中から黄色いスポンジが覗いていた。
周囲には重苦しい空気が立ちこめていた。
こんなときこそツェラのノーテンキさが欲しくなるが、救急車に同乗してきたときから彼女は黙りこくり、今もソファーの隣で両手を組んで目を瞑っている。その真剣な表情を茶化す気にはとうていなれなかった。
壁に掛けられた時計が唐突に鳴った。驚いて顔を上げると、文字盤の下からラッパを持ったこびとたちが現れてクルクルとダンスを踊った。楽しげなメロディーが辺りに満ちた。ひとしきりダンスを踊るとこびとたちは奥へ引っ込み、バタンと扉が閉められた。再び静寂が訪れた。僕とツェラはぽかんと口を開けていた。
なんだってこんなに愉快な仕掛け時計が病院に設置されているのかと訝っていると表の自動ドアが開き、ひとりの女性が急ぎ足で入ってきた。受付で何かを問うているその様子から田村の母親であることがすぐに知れた。女性は受付に耳を傾けていたが、やがてくるりと振り向くや僕を見詰めた。
「あなたが鮎川さんですか?」
「あ、はい」
「この度はご迷惑をおかけいたしました。申し訳ありません」
「いえ……、それよりも田村、えっと、武人くんのほうへ」
「はい、すみません」
丁重に僕への謝辞を述べながらも明らかに気が急いている様子の母親を病室へと促した。母親は僕の抱えていたバッグを受け取るとありがとうございましたと深く頭を下げ、そして、華奢な体型に似つかわしくないゴツいバッグを肩に背負うと廊下の向こうへと瞬く間に消えていった。
ふうっと僕は深く息を吐いた。
これでお役御免になったわけだ。もう僕に病院にいる理由は無い。
立て続けに起こった事態に僕の心臓はほとんど高鳴りっぱなしだった。少し落ち着こう。
僕はあらためて大きく深呼吸をした。薬品の匂いが僕の鼻の奥を冷ました。
「さて、行くか」
そう声をかけると床に視線を落としていたツェラは潤んだ目で立ち上がった僕を見上げた。それはまるで僕の目の中に田村が無事であるための秘密でも隠されているかのような眼差しだった
「大丈夫かなあ……」
「平気だって。心配いらないよ」
「うん……」
「何かで聞いたか読んだかしたけど、ああいうのって逆に血が出てる方が安心なんだって。血が出てないと内出血とか起こしてて逆に危ないとかなんだとか。ほら、田村ってちゃんと血が出てたでしょ。だから心配ないよ」
ソースも不確かなきわめて信憑性に乏しい言だったが、それでもツェラの顔にはパッと明るさが差した。
「じゃあ安心なんだね!」
「ああ」
僕は力強く頷いた。
いまの僕に何が出来る? 心配したって直接には何ひとつ出来ないじゃないか。だとすればたとえうろ覚えの知識であっても言霊の力を信じ、無事を願い、目の前の〈絶望〉を安心させることが精一杯だろう。
「せっかくだから駅前まで行ってみる?」
あまりそんな気分でもなかったが試しに言うとツェラは笑顔を見せた。
「うん、行こう!」
気分転換の速さもまた僕の〈絶望〉の良いところであった。
キュッキュッと床を鳴らして軽快にツェラは自動ドアから飛び出していった。あんまり慌てるんじゃないぞという僕の忠告を聞きもしない。
いちおう小楢に連絡を入れておくかと僕はスマホを取り出した。そういえば今回もツェラの能力に助けられたっけ。
外はまだ雨が降っていた。ドアを出て傘を開いてから左右を見渡した僕は、ツェラが駆けていった駅前とは反対の方向からひとりの少女のやってくるのが目に入った。黒い制服らしきものを着ているのを見ると中学生かとも思われるが、驚いたことに傘も差さずに全身びしょ濡れのまま猛ダッシュしてくる。
あっけにとられていると少女は僕の立っている横をすり抜けて病院の中へと駆け込んでいった。ずぶ濡れだというのに受付も素通りしてそのまま廊下の先へと消えていった。
なんだあの子は……。
しばし呆然としてしまったが、僕はあっと思いついた。あれは田村の妹ではなかろうか。だからあんなにも慌てて一目散に病室へと走っていったのだ。
だったらお兄ちゃんはきっと大丈夫ですとかなにか言ってあげたら良かったろうか。いやいや、自分なんかが余計なことを言って足止めするべきではなかろう。
僕は思い直すと前を向き、やっぱり傘をクルクル回して水滴をまき散らし、いつの間にかずいぶん先を歩いているツェラの後を追った。
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