第24話 冷たい雨にまじって

 隣で息を詰めていたツェラがふうっとそれを吐き出したと同時に僕は坂道を駆け出していた。

 うずくまる人は大粒の雨に打ちつけられるがままになっており、その向こうには自転車が不自然な形状に曲がって倒れていた。脇には開いたままのビニール傘が持ち手を上にして転がり、内側に雨滴を溜めていた。

 懸命に走りながら、一方で僕は戸惑っていた。倒れている人間に駆け寄ってみたところで自分には何が出来るのか。それ以前にいったいどう振る舞えば良いのか。ほとんど恐れてもいた。

 しかし、隣にいるツェラの瞳の中に水面で震える月光のようなものが閃くのを目にした瞬間、僕はその場に立ち止まっていることが出来なかった。

 そうして坂の下まで一気に走った。駆け寄って倒れている男のそばにかがみ込むや、あっ、と僕は声を漏らした。

 季節外れのニットキャップを目深にかぶって呻き声をあげているのは同じクラスの田村だった。

「どうしたの? 転んだの? 大丈夫?」

 言いながら僕は自分で自分の言葉を否定していた。彼が大丈夫ではないことは一目瞭然だった。黒い服を着ているので遠くからは気付かなかったが、田村が左手で抱くように抑えている右肩からは血が溢れ、雨水と混じって坂道を流れていた。

 田村が薄目を開けて僕を見た。そこにいるのが同級生だと分かったらしく、田村は口を開いたが出てくるのは呻き声ばかりであった。

「じっとしてて。いま救急車呼ぶから」

 田村はそれでも何かを伝えるべく喉を絞った。

「う……、ス、スマ……」

「え?」

 視線の先には自転車の前カゴからこぼれたバッグがあった。田村は自分のスマホで救急車を呼ぶよう僕にうったえているのだと僕は理解した。しかし、彼のスマホを使うとなると起動には本人の認証が必要で、この状態の彼にそれをさせるのは困難に思えた。

「お、俺の、ス……」

「大丈夫! 僕が呼んであげるから」

 僕は自分のズボンに手を伸ばした。そして、瞬間的に青ざめた。

 そういえば、家を出るときに僕は自分のスマホを……。

「んぐっ!?」

 いつの間にかやってきていたツェラが後ろから僕の口を手で塞いだ。驚いて振り返ると、ツェラはもう片方の手を雨雲の覆う空に向かって掲げ、目を瞑った。


【無言のままツェラが僕のスマホを差し出した。】


「えっ? これって……。いや、なんでもない」

 傘を放り出したツェラは髪から滴を垂らしながらゆっくりと目を開け、真っ直ぐに僕の目を見詰めた。こんなにも真剣な彼女の表情は見たことが無かった。

 僕はスマホをタップした。そして、震える指先をしっかりと握り締めて耳に押し当てた。

「あ、あの、友人がケガをしたので救急車をお願いしたいのですが……」

 僕は自分の声がうわずるのを覚えた。

「ええと、自転車で転んだようなのですが……。はい、意識はあります。ええと……、肩です。出血しています。ええと……、自力では起き上がれない状態なのですが……、はい……。はい、場所は……」

 電話に出た救急隊員の場違いなほどに事務的な口調によって僕は冷静さを少しだけ取り戻した。しかし、通話を終えても僕の鼓動は高ぶったままであった。可能な限りで止血をと言われたけれど、傷口をどうやって圧迫すべきなのか、そもそも痛みのある部分を圧迫して良いものか、僕には判断がつかなかった。どうしようかと田村のそばに屈み込むと田村は、大丈夫だ、自分には触れなくて良いという意味のことを苦しげな声で途切とぎれに言った。

 為す術の無い僕は田村の上にビニール傘を差して雨をよけながら、すぐに救急車が来るから、とか、絶対に大丈夫だから、とか声をかけて励ますのが精一杯だった。

 本当のことを言うと僕はすぐにでもその場から逃げ出したかった。呻き声や流血が恐ろしかったからではない。もちろんそれもあるのだけれど、何より僕を戦かせたもの。それは野球部でエースナンバーを背負い、将来さえ有望された田村の、その右肩に起こってしまったおそらく取り返しのつかない悲劇にたったひとりで立ち会っているという、とても自分の人生には似つかわしくない役回りの重大さであった。

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