第23話 不意打ちジャンケン

 そして僕は雨に包まれている。

 雨はしょうがない。そろそろ梅雨の時期だというのもあるし、もとより自然現象だ。誰かに請うことも責めることも出来ない。雨よ止めと念じて本当に雨が止んだとしたらそれは祈祷師のスペシャリストかスクールアイドルのリーダーだ。

 だがしかし、日曜の昼日中からこうして誰ひとり歩いていない侘しい道を傘の中に身をすぼめながら僕が歩いているのは他でもない、そう、妹の小楢のせいである。


 今朝、と呼ぶにはずいぶん遅い時刻にゆったりと目覚めた僕がキッチンへ下りると、テーブルには二人分の食事が用意されていた。母親の有以さんは今日は朝から出かけると言っていた。まさかツェラが僕に加えて自分の分を、と一瞬だけ考えたが、ツェラなら僕の部屋の床で犬のように毛布にくるまって何やら寝言をしゃべっているのをさっき目にしたばかりだ。

 はて、と思いながらトーストした食パンの上にスクランブルエッグとマヨネーズを小気味よくトッピングしていると、パジャマ姿の小楢があくびをしながら入ってきた。

「おはよー」

「おはよう……、って、あれ? 小楢、日曜日は友だちと駅ビルに行くって言ってなかったっけ?」

「ええっ? お兄ちゃん外見てよ。この雨だよ。中止中止」

 ふわあ、とあくびを重ねながら小楢はコップに牛乳を注いだ。

 確かにこの悪天候のなかドーナツひとつのために駅まで出かけていくのも酔狂というものだ。せっかくのリニューアルオープンだというのに当の駅ビルには痛み入る。

 それにしても友だちと予定を立てるなら天気予報くらいチェックしないものだろうか。そう思うが、指摘するとまた面倒なことになりそうなので黙っていると、眠そうな様子とは裏腹にどんどん朝食を胃に流し込んでいく小楢が驚くべきことを口にした。

「だから今日の夕食の買い出しはお兄ちゃん行ってよ」

 僕は小楢の言葉を二度、自分の中で暗唱した。それでも分からなかった。

「小楢、だからってのは順接の接続詞だぞ。今の流れでどうして僕が夕食の買い出しに行くことになるんだ?」

「なにが?」

「友だちとの予定が無くなったんなら小楢が行ってくれよ。もともと駅前には行くつもりだったんだろ」

 小楢は心の底から理解不能というような顔をした。

「なんでそうなるのよ。予定が無くなったってことは今日は一日うちで過ごすことになったっていうことでしょ。外に出るつもりなら最初から駅ビル行くよ」

「だったら買い物のついでに駅ビルまで行けばいいじゃないか。どうせスーパーと方向は一緒なんだし」

「なんで駅ビルをついでにしなきゃいけないのよ。たしかに最初は駅ビル行って帰りにあたしがスーパーに寄ってくることになってたけど、駅ビルの予定が無くなったってことはスーパーの予定も無くなったってことじゃない」

「あーそうなんだー。最初は小楢がスーパーへ行くことになってたんだー。だったら駅ビル行く行かないは関係ないよなー、小楢が行くべきだよなー」

 露骨に挑発すると小楢がみるみる憤怒の表情に変わっていく。

「もお! なんでそうなるのよ!」

「僕だってこんな雨のなか行くのいやだからな」

「お兄ちゃんが行きなよ!」

「小楢が行くんだろ!」

 小楢はぐぐぐと歯を食いしばった。そして、すっと視線を逸らせてぼそっと呟いた。

「お兄ちゃんなんて一緒に遊ぶ友だちすらいないくせに」

「はっ!? そ、それはいま関係ない……」

「ジャン! ケン!」

「ちょっ!?」


 ということがあって、いま僕はこうしてめでたくズボンの裾を濡らしながらスーパーへ向かって歩いているというわけだ。

 大粒の雨が傘を叩く。スニーカーのつま先は既にぐっしょりだ。それでも風が無いだけまだマシだな、と思うや横から水滴が快調に飛んできた。

「あの、ツェラ。その傘クルクル回すのちょっと止めてもらえるかなあ」

「ん? あー! 鮎川くん顔までびっしょり!」

 もう慣れてきた。こうして〈絶望〉を名乗る女の子と二人で歩くことにも、その女の子がだいぶ自由でちょっとだけ残念なことにも。

 そう思えば僕には少し気にかかることがあった。

 ツェラにとって自らの存在を認め、会話して、行動や喜怒哀楽を共に出来る人間は世界でたったひとり、僕しかいないのだ。

 果たしてツェラはそれで幸せなのだろうか? その事実に寂しさや、それこそ絶望を感じることは無いのだろうか?

 見る限り今のツェラにはそんな悲壮な様子は微塵も無い。それにもしツェラが寂しさを感じていたとしても僕にはどうすることも出来ない。

 考えたところでしょうがないか……。

 水たまりを飛び越えながら数メートル先まで進んだツェラはそこなら僕に水がかからないと悟ったのかまたもや傘をクルクル回転させた。

「ねえツェラ」

「なあに鮎川くん」

「雨、好き?」

 ツェラはうーんと首を捻った。そして、表情をぱあっと晴らした。

「好き! でもお天気の日も同じくらい好き!」

 そもそもこれという答えを期待していなかった僕は、そっか、とだけ呟くと靴下まで染みこんだ水の心地悪さを気にしつつ足をまた踏み出した。

 左右を木立に挟まれた真昼でも薄暗い小道を抜けると目の前に急な下り坂が現れる。そこを下りきれば大きな通りと合流する。

 ふと、下り坂のてっぺんに到達したところでツェラが足を止めているのが目に入った。

 遅れた僕を待っていてくれるのだろうか。それにしては振り返りもせず坂の頂でその先を見下ろしたまま身動きひとつしない。

 なんだろう? 不思議に思いながらツェラに追いついてその横に並んだ。そこで僕が目にしたのは、坂が平坦な道路と交差するその手前でうずくまる黒い物体だった。

 黒い物体は冷たい雨に打たれ、とても苦しげに肩を震わせていた。

 

 僕にはすぐにそれが苦痛のためにうずくまる人間であることが知れた。

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