第22話 きっと色だけでじゅうぶん

 鼻先を掠めた竹刀は床にバインと跳ね返り、その反動でもって再び上段へと構えられた。

 恐怖と驚愕とに歪む僕の顔をキッと睨みつけた急襲の主だったが、相手の正体が知れるや急に気の抜けた表情になりハアッと失望めいた溜め息さえ吐いてみせた。

「なんだお兄ちゃんじゃん。なんでお兄ちゃんの部屋にお兄ちゃんがいるのよ!」

「おまえいますごくおかしなこと言ってるの気付いてる?」

 妹の小楢は帰宅した直後らしく制服を着ていた。竹刀こそ下ろしたものの興奮はまだ収まらないらしく妙な難癖を付けて僕をなじった。

「だって普通の高校生はこんな時間に自分ちにいないじゃん。帰ってきたらカギ開いてるしさあ、念のため武器持って上がってきたらお兄ちゃんの部屋からのそのそ音がするし」

 カギを閉め忘れた失態は認めるが、玄関の靴で在宅を確認するという基本を我が妹は知らないらしい。

「そしたらお兄ちゃんだしさあ。あーあ、なんかドキドキして損しちゃった」

「で、小楢こそこんな時間にどうした? 顧問の先生は復帰したんじゃないのか?」

「中間テスト。今日から部活はお休みでーす」

 どうにも口のききかたが小憎らしい。なんかドキドキしたせいでお腹空いちゃったー、となおも無責任なことを言いながら小楢は自分の部屋へ戻ろうとした。玄関に置きっぱなしの通学バッグも気になるし、まったく世話のかかる妹だと思いつつも自分は今からキッチンへ行くつもりだと良き兄としてひと声かけた。

「えっ、おやつ? あたしもいくからちょっと待ってて!」

 おやつと聞いた途端に目を輝かせて部屋へと駆け込んでいった。ま、元気でなにより。

 ツェラの分も、と言いかけて部屋を振り返ると当のツェラは廊下のドタバタなどまるで気付いていないかのようにじいっとスマホに見入っていた。


「お兄ちゃん、レイボって知ってる?」

 砂糖をまぶしたドーナツを頬張りながら小楢が言った。

「ああ、いちおうスマホに入れてるけど」

「へえ、友だちがいないお兄ちゃんでもやっぱ入れてるんだあ」

 むぐむぐと口を動かしながら小楢はしきりに感心した。実の兄に友だちがいないことを根拠に感心しないでほしい。

「使ったことはないけど」

「あはは、やっぱり」

 

 レイボ。それは最近になって急速に僕らのあいだに広まったスマホ専用アプリである。

 機能は簡素にして明瞭。相手に色を送る。それだけである。

 送り主を選択すると画面にグラデーションのかかった文字通り虹のようなものが表示される。そこで任意の部分をタップ。するとタップした部分の色が相手に送信されるというわけだ。

 受け取る側にはスマホの画面いっぱいに特定の色が表示されるだけ。画像や音楽はもちろん、文字情報すらやりとりする機能は無い。


「でもどうなんだろうな。色だけって、それって楽しいのか?」

「だからいいんじゃん! 雰囲気でいいのよ雰囲気で」

「そんなもんかねえ」

「いちおう色にきまりみたいのもあるっちゃあるんだけど。オレンジはハッピーとか青はブルーとか」

「赤は怒り?」

「うん、じゃない?」

 僕はよく知らない。

「でもやっぱ雰囲気かなあ。ぱっと見ていまこの色! みたいな」

 まあこういうアプリに深い意味を期待してもいけないのだろう。

「ていうか簡単? だって同じ学校なら誰にでも送れるんだから」


 そう。このアプリの大きな特徴が学校単位でグループが形成されているということである。IPやアドレスは不要。アプリさえインストールされていれば同じ学校のスマホ間でなら学籍番号だけでやりとりが出来るのだ。つまり相手と直接面識が無くて色は送れるのである。

 このオープンな設計がいっとき問題にもなったそうだが、言っても色を送るだけ。雰囲気や気分をやりとりするものなので面倒なトラブルには発展しにくいのかもしれない。

 しかもこのレイボというアプリは送信着信ともに履歴はいっさい残らない。その痕跡はまさに虹のように掻き消えてしまうというわけだ。


「もはや僕らのコミュニケーションはここまで抽象的かつ刹那的になったというわけだ」

「は? でもお兄ちゃん、使ったことないんでしょ?」

 その通り。逆に一度も使ったことのないアプリにここまで深い理解を示す兄に誇りに持ってもらいたいものだ。

 ドーナツを牛乳で飲み下した小楢はプハーッと息を吐いた。

「次の日曜日に駅ビルがリニューアルオープンするでしょ。そこにすっごいドーナツ屋さん出来るんだって」

 さすがに女子だけあって話が急に飛んだ。

「あ、駅ビル、リニューアルするんだ」

「うっそ! お兄ちゃん知らないの! 信じられない。いまみんな話してるよ!」

 そのみんなっていうのは小学生が欲しいオモチャをねだるときの、みんな持ってるから、っていうあのみんなのことだろう。みんななど存在しないのだ。

「で、すごいドーナツ?」

「いや、ドーナツかどうかは知らないけど、なんかハワイで超人気があって日本初上陸とかいうやつ」

「ドーナツじゃないの?」

「でもなんかお菓子で、日本初上陸かは分かんないけど、すっごいフワフワとかパリパリとかそういうやつ!」

 その情報がフワフワしすぎているが、とにかくそういう店なわけね。

「あたし今度の日曜日に友だちと一緒に行くから」

「テスト勉強は大丈夫なのか?」

「へいきへいき。あたしやれば出来る子だから」

 そうだ著てく服あるかな、と言って小楢は自分のコップを片付けると慌ただしく階段を駆け上がっていった。部活が中止で元気が有り余っているのかもしれないな。

 ゆっくりとおやつを終えて自分の部屋のドアを開けるといつもと違うツェラの様子が目に飛び込んできた。座ったまま俯いて、ときおり肩をヒクヒクと動かしている。僕は思わず駆け寄った。

「どうしたツェラ!?」

 無言のままツェラが僕のスマホを差し出した。表示されていたのはウィキペディアの1ページだった。

 

 ステラーカイギュウ――。

 

「うう、ステ、ステラちゃんが……。こんなにもなか、仲間思いなのに、ら、乱獲で、ぜつ、絶滅……。うう、ぐすん……」

 うん、可哀想だよな、ステラーカイギュウ。

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