第2章
第21話 心の優しい海獣たち
僕は今日もベッドに身を横たえていた。
いったん横になった身体は目に見えない何か、おそらく時代とか社会とか運命とか、そういった何物かに押さえつけられて容易に起き上がることが叶わない。
かろうじてうつろに開いたその瞳に映るのは見知らぬ天井……、だったらまだマシなんだろうなあ……。
実際に僕の目が見るのは紛れもない、飽きるほど見知った自部屋の天井であった。木目を辿る迷路遊びも完全攻略済みである。
あの体育祭から一週間が経過していた。
かつての僕の放課後は小説の執筆および結果待ちという当面の目標とまだ見ぬ未来への期待とに充実していた。実を言うと結果待ちのあいだも自分の応募作が書籍化される日のために推敲を重ねていたのである。肝心の結果は散々だったものの、予期せぬことにこうして〈絶望〉が到来してなんだかんだ振り回され、おまけに体育祭なんぞが間近に迫っていた。たとえそれがマイナス要素であったとしても、近い将来になにがしかの出来事が待ち構えているというのはそれだけで張り合いになるらしい。いくら理不尽な要求であってもクエストが与えられればそれが済むまで時間は潰せる。
現在の僕にはもはや何のクエストも与えられておらず、目的を喪失したゲームのプレイを強いられているようなものである。
放課後とはいえ太陽はまだ高い。夏が近づいている。これからもっと日は長くなるだろう。
具合が悪くて学校を休んでみたものの意外とケロリと体調が良くなってしまったときのような罪悪感を感じながら、かといって起きてすることも無くベッドに寝転ぶ僕の鼓膜を気の抜けた鼻歌がくすぐって過ぎていく。
「ふんふふーん」
鼻歌の主はいったい何を見ているのか僕のスマホにずいぶんとご執心である。
そもそもはツェラがスマホを興味深そうに見詰めていたことがきっかけだった。
ずいぶんと珍しそうに眺めるものだから、それじゃあ今日は僕の代わりに宿題やっといてもらおうかな、などと言って、もちろん冗談半分なのだが本日の範囲が表示されたスマホをツェラに手渡したのだ。するとみるみるその表情が強ばり、出来るかなあ、とぼそりと呟いたので、そこで面白がって調子に乗ったのがまずかった。じゃあよろしく頼むよ、とベッドに入ってしまった背後からまた、出来るかなあ、と同じ言葉が繰り返されるのを聞き、どうも様子が変なので見るとスマホを持つツェラの手がガタガタと震え始め、ハッと思う間にその目には涙が浮かび始めた。
「鮎川くんの大事な宿題が、わた、わたしに、で、でき……」
「あーっ、うそうそうそ! 冗談だって。ごめんごめん、そんなに責任感じなくていいから!」
というわけでひょっとしたらという淡い期待は脆くも崩れたわけだが、ともかくスマホを見ていたいというツェラに好きなようにさせている。万が一にも彼女が僕のスマホを悪用するなど考えられない。見られて困るようなものはそれなりの手順を踏まないと見られないようになっている。
「ふふーん、あれ、この虹みたいのなんだろ?」
それにしても暇を暇と認識してそれを潰そうと試みるだけツェラはまだ健全だと言える。僕ほどのレベルになると暇をありのままに、等身大の暇として受け入れることが出来るのだ。何物にも還元しない。霞を食べて生きる仙人のようなものだ。そろそろ僕のことを誰か崇めてくれないだろうか。そして僕の枕元にお賽銭やらお饅頭やらポテチやらを供えてくれないものか。
「ん? なんかいまシャイーンって?」
あれから図書室にも足を運んでいない。小説執筆の用が無くなったのもあるけれど、それ以上に朝吹さんという事情があるのだ。
マラソンを走った後に朝吹さんと初めて交わした会話も決して失敗ではなかった。とはいえ、なんとなくあらためて顔を合わせずらい。いったい何を話せば良いのか分からないのだ。今まで通りでいれば良い。いや、それは分かっている。分かっているのだけど、その今まで通りが普通に出来れば何もこんなに悩んだりはしない。
グウウ。
僕の胃袋が盛大に鳴った。何もしなくても腹は減る。人間というのはなんて不合理に設計されているのだろう。
ツェラがスマホから顔を上げて目を丸くしている。ううむ。この顔を見るとどうしても僕のおちょくり心が疼いてしまう。
「そういえば話してなかったけど、僕って腹に小動物飼ってるんだよ」
「ええっ!?」
「ほら、さっき鳴き声が聞こえたでしょ?」
「うん! グウウって、なんか辛そうな声だった。で、どんな!?」
「ステラーカイギュウ」
「えっ?」
「ステラーカイギュウ」
「すてらー……」
「ああっ、ごめんうそうそ。ステラーカイギュウはもう地球上から絶滅してたっけ。ていうかぜんぜん小動物じゃなかったね」
ツェラはしばらくのあいだ目をパチクリさせていたが、やがてハッと何かに気が付いた表情に変わった。
「あっ! 小動物飼ってるってきっと冗談でしょ! なあんだ、鮎川くんはきっとお腹が空いてるんだあ。それでお腹の虫が鳴いたんだあ!」
うん、そうやって素直の全力ストレートで反応してくれるといっそ僕の恥じらいも吹き飛んでしまうというものさ。逆に頑張って生きようって気持ちも湧いてくるよ。
おやつ取ってこようかというツェラを片手で制止し、僕はベッドから両足を下ろした。上半身を起こしたら足を右左と交互に動かして部屋を突っ切ると右手でドアノブを握り、手首を捻ってドアノブを回した。自分の部屋から廊下に出るというだけでこれだけの動作が必要なのだから本当に人間とは面倒なものだ。僕はドアを開けた。
「チェストオオオーーー!!」
「うわあああ!!」
廊下に踏み出した僕の目の前に一本の竹刀が超高速で振り下ろされた。
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