第20話 それはきっと本当のこと
喉にせり上がってくる酸味もようやく落ち着いた頃、頬に冷たいものがピトッと触れた。
「うわっ」
驚いて顔を上げるとツェラが立っていた。
「えへへ。鮎川くん、お疲れさま」
「ああびっくりした。っていうかどうしたのそれ?」
「そこの水道で洗ってきたの!」
ツェラは濡らした髪から滴を垂らしてにこにこと笑っていた。それは僕の前に初めてその姿を現したときのようだった。頬に触れたのはびっしょり濡らした掌だった。
そういえばツェラは財布を持っていないんだっけ。お金が無ければさすがのツェラでも自販機を使うことは叶わない。僕はゆっくり立ち上がると両手と両膝、それから体のあちこちをパンパンと叩いた。
「そんじゃ飲み物でも買いに行くか」
「うん!」
ツェラがくるりと回転すると髪から水滴が散った。
「ねえ、ツェラ」
歩きながら僕は言った。
「ありがとう」
「ううん、考えたのは鮎川くんだし、泥落とすの簡単だったよ」
「そうじゃなくて、それもあるんだけど、あの、応援してくれて」
「うん。どういたしまして!」
ツェラは声を弾ませた。濡れた髪が陽光に輝いていた。
渡り廊下の自販機前は競技を終えた生徒でごった返していた。
売り切れるのではないかと心配していたが、それでも無事にスポーツドリンクをゲットした僕は、今日に限ってそれだけは売り切れることはないだろうという激甘のコーヒーをチョイスしたツェラを従えてそそくさと自販機前を退散した。
とりあえず教室行って休むか、と廊下を進み始めたそのとき、向こうから見知った顔が並んで歩いてきた。レースの興奮が静まりかけていた僕の胸は再びトキンと鼓動を高めた。
「おー篠生じゃん」
気安く僕に声をかけてきた幼なじみの黒田叶映の隣で笑みを浮かべているのは朝吹実梨さん、その人であった。
「そういえば篠生ってマラソン出たんでしょ? どうだったどうだった?」
近づくなりニヤニヤとこちらの顔を覗き込んでくるあたり、黒田の性格が知れるというものだ。僕が好成績なわけないことなど分かりきっているというのに。しかし、彼女のこういうおおっぴらさには不思議と嫌みがないのだから憎むに憎みきれないというもの。
だが、今回は場合が場合である。黒田の隣にはもう一つ別の笑顔が並んでいる。
「まあ、別にあれだけど」
僕は努めて冷静に、しかし肝心の部分を濁して答えた。
「なにそれ?」
「だから別に普通だってこと」
「えっ、ひょっとして完走したってこと!?」
「そりゃあするさ、完走くらい」
「マジ? 篠生やるじゃん!」
どうやら黒田の頭の中では小五のマラソン大会で僕の記憶が止まっているらしい。残念ながら僕はそのトラウマは既に克服済みである。それにしても完走程度で驚かれたのでは朝吹さんの手前バツが悪い。
「で、何位だったの? 篠生って実はけっこう速かったじゃん」
黒田は嫌な質問を重ねた。するとその隣で朝吹さんは、へえそうなんだあ、というちょっと感心したような顔を見せた。
「いや、それは別に、あれだけど……」
言葉を濁す僕になぜか分からないが黒田は引き下がらなかった。
「だいたいでいいから。何位くらい?」
僕は額に汗を浮かべていた。43位なんていう微妙にもほどがある順位を口に出来るわけがない。しかもけっこう速かったなんて黒田に言われてしまってはなおさらだ。ここで朝吹さんを軽く失望させるとか、いったい誰がどう得をするというのだろうか。さすがに僕は黒田を恨み始めた。
僕の袖がチョイチョイと引かれた。ツェラである。
「ねえ、あれってこの前の先生だよね」
ツェラが指さす方を見れば体育教師の吉増が体を揺らしてこちらへ歩いてくる。
「ああ、そうだよ」
小声で答える。しかし、なぜツェラはこの状況でそれを確認してくるのか。ああ、彼女もまたマイペースだった。天真爛漫、天衣無縫、そして文字通りの天使に三方から挟まれた僕の脳内は再び酸素不足を起こしていた。
すると、ツェラがその場でクルクルと回り始めた。ついにどうかしちまったのかと僕が思うやピタッと止まり、目を瞑って両手を天に掲げた。どこかで見たことがあるけれど、いつどこでだったか。
僕の混乱が極まったと同時に黒田と朝吹さんの隣に吉増先生が並んだ。
【吉増はぽかんとする僕の目の前にビシッと親指を立てた。
「鮎川、お前なかなかやるじゃない!」
そう言い残して吉増は体育館の方へと体を揺らして去っていった。】
「なんだ篠生すごいじゃん! 吉増に褒められるなんて!」
黒田が驚きの声をあげた。
「え、あ、うん。まあね」
僕は曖昧に答えた。
それを聞くと、それまで笑みを湛えるだけだった朝吹さんが目に尊敬の色を浮かべて口を開いた。
「あの、マラソン、速いんですね」
「いや、言うほどではないんだけど。まあ昔から得意っていうか……」
記念すべき朝吹さんとの初会話はかろうじて嘘にはならなかった。思いっきりしどろもどろになってしまったけれど、まあ、初めてなんてのはたいがいそんなものさ。
そんじゃああたしたちクラスの応援行くから、と手を振る黒田と会釈をする朝吹さん、その向こうで小首を傾げる吉増の後ろ姿を僕は取り残されたような気分で眺めた。
「えへへ」
なんとかごまかせたかと胸をなで下ろす僕の隣でツェラは得意がるでもなく、あくまでも屈託の無い笑顔を作っていた。そして、いつの間に空けたのか買ったばかりの激甘のコーヒーの缶をはやくも顔の上で逆さにしてズズッと最後の一滴を啜り込んだ。
「ねえ、ツェラ」
「なあに、鮎川くん?」
ツェラは顔を向けた。
「もう一本いる?」
「うん!」
僕の〈絶望〉は弾けるように笑った。
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