第19話 転がるアレのように

「ツェラ、頼みがある」

 相当に疲れたのだろう、肩を大きく上下させながら片足ごとに重心を移動させてペダルを踏んでいたツェラは肩越しに後ろを見た。

「へえ? ハァ、なあに、ハァ、鮎川くん? ハァ」

「その先に、はあ、曲がり角が、はあ、あるだろう?」

「ハァ、ハァ、うん。あるね」

「その角を、曲がったとこに、はあ、スポークに、はあ、その、挟まってるだろう?」

「え、すぽーく?」

「タイヤだよ。はあ。そのはまってる土を、角に、はあ、ばらまいてきてほしいんだ」

「いいよ。ハァ、ハァ」

「そしたら、すぐに、その場から、はあ、はあ、離れてほしい。どう、出来るかい?」

 ツェラは大きく頷くと、フウウウ、ハアアア、と大きく深呼吸した。そして、グンッとサドルから腰を上げた。

「わかった! 頑張る!」

 ハンドルを胸に引き寄せて前屈みになると派手に体を左右に揺らしながらツェラはどんどん僕らを引き離して行った。僕は心の中で無茶を詫びた。

 やがて曲がり角の向こうからスコン!スコン!とメガホンをタイヤに打ち付ける小気味の良い音が聞こえてきた。首尾は上々だ。あとは僕の演技力にかかっている。それにはまず曲がり角までこの状況をキープしなければならない。やつの一歩先を行くんだ。

 背後には荒い息づかいがぴったり張り付いている。隙あらば僕を追い抜かそうと機を窺っている気配がありありと感じられる。折れるな。せめてあの曲がり角までは。

 あと10メートル。

 踏ん張れ。

 あと5メートル。

 やつに先を行かせるな。

 僕は歯を食いしばって先行したまま曲がり角を曲がった。

 そして、曲がった瞬間に宙へ跳んだ。

 

「うわああああ! なんだこれええ!?」

 

「は? ああっ!? げえええええっ!」

 まさに僕を追い抜かそうと足を踏み出したやつは曲がり角に転がった無数の泥の塊を見事に踏みつけた。そして、僕の反応からそれを忌まわしき何かと勝手に解釈するや僕よりも高く飛び上がった。

「うーわ、うーわ……」

 何食わぬ顔で先へと走り出した僕の後ろからズーコズーコとシューズを道路にこすりつける音と悔恨の声が聞こえてくる。さすが目立ちたがり屋さん。ナイスなリアクションだ。

 これで数メートルの差を付けたばかりではない。やつには精神的ダメージも与えられたはずである。

 卑怯? 姑息? 自転車のスポークに挟まった田んぼの土をたまたま道路で払っただけである。彼じしんにも何ら手を出したわけではない。スポーツマンシップに照らしたところで重大な妨害とは言えないだろう。きっと。

 視線の先では校門の脇からツェラが顔を覗かせて親指を立てている。うん、グッジョブだ。

 あの校門を潜ればグラウンドの入り口に設置されたゴールまではほんの僅かだ。いける、と思った瞬間に背後にぞっとする気配を感じて僕は振り返った。 シューズの裏に付いた土を落とすことを諦めたやつがまるで顔面にヤケクソと殴り書きしたようなものすごい形相でスパートをかけてきた。おいおい、恨むべきは僕ではないだろう。いやまあ、僕なんだけどさ。

 前方からはツェラが両手を口にあてて叫ぶ。

「鮎川くーん! がんばれー!」

 承知した。このまま全力を振り絞ってなんとしても今の順位をキープしたままゴールテープを切ってやる。

 先行したとはいうものの、もはや足首は取れそうなほど痛み、膝はガタガタと笑っている。上半身が前につんのめりそうになるところを気持ちで引っ張り上げ、ひたすらに足を前へと踏み出す。

 後ろからやつがスピードを上げてくる。僕は必死で逃げる。

 校門のツェラには脇目を振る余裕は無く、無我夢中で走り抜けた。

「鮎川くーん! トップでゴールだー!」

 いやいや、トップじゃないけども。頭の片隅でツッコミを入れながら視線はもうゴールを捉えていた。係の生徒が何回目になるのか知れないが気怠げにテープをピンと張るのが見えた。なに構うものか。とにかく先にあのテープを切るのはこの僕だ!

 やつの荒れた呼吸と足音が僕の首筋をむんずと掴んだ。くそう、抜かされてたまるか!

「ぐぬああああ!!」

 死ぬ気で全身をゴールへと吹っ飛ばした。


 へその辺りを一陣の風が通り過ぎた。


「はい43、その次の方が44位でーす」

 気怠げな声が耳に届いた。

 勢いが止まらずに校庭の端までガクガク進んでから堪らずその場に膝を付いた。膝と掌に小さな石が食い込むのもためらわずに四つん這いになると鼻の頭からは汗が滴り落ち、乾いた地面に次々に染みを作っていった。染みの出来た大地はグルグルと回転するようだった。呼吸の荒波が肩を上下にうねらせ、僕は何度も咳き込んだ。

 そんな僕に一人の女子生徒が遠慮なく近づいてきた。

「ゴールした方はタップお願いしまーす」

「はあっ、はあっ、へ?」

 目の前に一台のタブレットが差し出された。そういえばゼッケンも無く、僕のような他生徒に名前も顔も認知されているわけでもない参加者にどうやって順位を付けられるのかと疑問だったが、そういうシステムなわけね。

 僕はまだ震えの収まらない指先で自分の学籍番号をタップした。すると画面にはペカッと文字が浮かんだ。


 43位――鮎川篠生


 頭の上の方から、あーくそっ、と敗北を嘆く声が降ってきた。

 勝った。

 優越感のあまりこのまま仰向けに寝転びたい気分だったが、よく考えればこの順位でという恥じらいが僕をしてそうさせず、僕は四つん這いに俯いた状態でグラウンドに出来ていく汗の染みを見詰め、ははっ、と大地に向かって勝利の笑いを投げつけた。

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