第18話 好敵手は勝手に現れる

 フッフッ、ハッハッ。

「鮎川くん、いいよ! いけるいける!」

 時に前から檄を飛ばし、時に後ろに回り込んで大きな声援で後押しするツェラの伴走を見ていて、僕は大きな勘違いをしていることに気が付いた。

 ツェラは僕の〈絶望〉が具現化ないしは実体化した存在として僕の前に現れた。そして、自分には特別な力があることを告白し、それは事実であった。

 しかし、それは彼女が僕の都合でいつでも自らの力を用いてくれることを意味しない。彼女の持つ力はあくまでも彼女のものであり、彼女の意思によって発現されるのだ。

 一週間という僅かな時間とはいえ、僕は彼女が自分にしか見えず、いつでもそばにいてくれるという甘さに浮かされてしまっていた。いつの間にか彼女が僕の言うことをなんでも聞いてくれる都合の良い存在だと勝手に思い込んでしまっていたのだ。

 そんなはずはない。

 彼女は彼女じしんの感情を持ち、意思を持ち、思考している。いくら僕が彼女の異能の発現を望んでも、本人がそれを望まない限り実行されることはない。そんな当たり前のことに僕はようやく気が付くことが出来た。

 ツェラは僕が自分の足でゴールすることを望んでいる。

 だったらやってやろうじゃないか。

 彼女のこの声援がおそらく彼女の本心なのだから。

 走ることに理由が出来てしまえば遅筋人間の能力が発揮される。レースも後半に差しかかり次第にバテてきた選手を一人また一人と追い抜いた。我ながらそのポテンシャルには目を見張るばかり。ひょっとして前世は飛脚とかだったんじゃないだろうか。

 僕はこれまでマラソンは孤独の中で行われる自分との戦いだと思い込んできた。だからこそ、そんなマラソンが自分にとって運動系種目で唯一の武器であることに誇りを抱いてきた。自分は群れない一匹狼なのだと。

 だがしかし、こうしてツェラの声援を浴びながら走っていると、もしかしたらマラソンにおいても他人の力ってけっこう大きいのではないかという気もしてくる。純粋な意味での個人競技とは言えないんじゃないかと。他人に迷惑をかけてしまうことが前提だったがためにチームプレイが必要な運動全般が大嫌いだった僕が、今はこうして自分を応援してくれる誰かのために懸命になって走っている。

 けっきょく人間なんてそんな都合の良い生き物なのかもしれない。

 まあいい。難しいことは後回しだ。

 今はただゴールを目指すのみ。

 

 レースは終盤。最後の住宅地へと入った。

 再びコースはアスファルトを踏むこととなり、足首から膝へと響く固さが体力を削っていく。そればかりかこれまでの見晴らしの良い田園地帯と異なって両側から迫る建物の圧迫感が心理的にもランナーを追い込んでいく。僕は自分で自分の心にビシバシとむち打ちながらひたすらに前を目指す。遅筋ばかりのせいではなく、僕がマラソン得意なのは別の性癖もあるのかもしれない。

 伴走するツェラも声を出す間隔が開き始めた。

「鮎、ハァ、ハァ、川くん。もうちょっと、ハァ」

「ツェラ、はあ、あんま無理すんなよ」

 もはや互いに励まし合い、僕らはまた一人バテた選手を追い抜いた。

 十メートルほど前に二人のランナーが併走しているのが見えた。どうやら友人同士でここまで走ってきたらしい。一方はほとんど足が止まりそうなところをもう一方が合わせてあげているといった感じだ。

 そんなお友達ごっこでマラソンに挑もうなんて百年早い。僕は後ろから距離を縮めていった。

 そして、はたと気が付いた。

 彼らはスタート直後に猛ダッシュをきめて観客から笑いをとっていた目立ちたがり屋の二人だ。

 あんな不埒なおふざけをやったもののここまで健闘したことはまあ褒めてやろう。だが、もはやこれまでさ。こんな連中が僕より先にゴールテープを切ることは断じてあってはならない。

 ここへ来て闘争ボイラーに火を付けた僕は一気にペースを上げた。

「だ、大丈夫、鮎川くん?」

 ツェラが心配そうな声をあげるが構わない。構えない。構ってなどいられない!

 構わん三段活用を唱えながら僕は彼らを抜き去った。ふう、この爽快感。スポーツって意外と楽しい。

 と、やつらを抜き去ったと思うや後ろからこんな会話が聞こえてきた。

「ちょっと俺、先いくわ」

「へえぇ? ぜえ、ぜえ、健闘を、祈る、ぜえ」

 またたく間に一人分の足音が迫ってきた。二人のうちペースを合わせてあげていた方だろう。そして、そやつは僕の背後までやってくるとぴったり後を付けてきた。

 終盤に来て友人を見捨てるとは想定外だった。

 僕の後ろにくっついたまま、やつは僕を追い抜いていくわけではない。

 抜かれない。しかし、引き離せない。

 このままゴール近辺までくっついてくるつもりか……。

 こうなると不利なのは前を走るほうだ。追われているというプレッシャーが重くのしかかる。自分のペースを乱され、呼吸も荒くなっていく。

 こちらの体力はもうぎりぎりだ。さっきやつは先に行くと言って友人を振り切ってきた。彼らの友情に関心は微塵も無いが、こやつはまだ体力を温存していると考えられる。このままでは最後の最後で追い抜かれる可能性はきわめて高い。

 焦るな。諦めるな。考えろ。

 いかなる状況においても冷静な判断の方が常に正しい。僕はあらためて自分の呼吸のリズムに集中した。

 フッフッ、ハッハッ、フッフッ、ハッハッ。

 何か策は無いか……。

 この先の直線道路の曲がり角を曲がればあとは校門まで一本道だ。その距離は十数メートルほどしかなく、門を過ぎてしまえばゴールまではさらに数メートルしかない。やつがスパートをかけるとすれば曲がり角を曲がったあたりだろう。そのスピードに食らい付いていく体力は僕には残されていない。

 僕は前を走るツェラと彼女の乗る自転車とに視線を据えた。

 

 いけるか?

 

 僕は大きく深呼吸をしてからツェラに声をかけた。

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