第17話 わたしが望まないのなら

 背水の陣とばかりに酸素不足の頭をフル回転させた僕はとうとうその光景に思い至り解法を導き出した。

「はあ、はあ。ねえ、ツェラ」

「がんば……、なに、鮎川くん?」

「君は、はあ、過去をもう一回、はあ、現実に、はあ、はあ、出来るんだよね?」

「うん。前に書かれてることだったらね」

 前に書かれているかどうか僕には分からない。いや、きっと書かれているはずだ」

「だったら、はあ、今朝、僕は夢を、はあ、見たんだよ」

「うん。マラソン大会の夢でしょ」

 それだ! 僕は心の中でガッツポーズを決めた。

「すっごく、調子良かったよね? はあ」

 ええと、とツェラは空中を眺めた。

「うん、そうだよ」

「繰り返すんだよ、それを!」

 確かに僕は今朝マラソン大会の夢を見た。心地よい風を感じ、一切の疲れも苦しみも感じずに軽快に走っている夢を。ツェラの力でそれを現実にしてしまえばいいのだ。

 僕はもうこんな辛い思いをして走る必要はない。そう思うと僕の足はほとんど止まりかけていた。

 僕は重い足をそれでも踏み出しながら反応を待った。だが、今や先を走るツェラの自転車はどういうわけだか速度を緩めなかった。仕方がないので僕は乱れる呼吸をガマンして追いかける。

 あれ? どうした?

「はあ、はあ、ねえツェラ、聞いてた?」

「うん、聞いてたよ」

 振り向いたツェラの顔には笑みが張り付いていた。

「だったら早く、はあ、ほら、僕はもう倒れそうなんだよ」

 ツェラはうーんと歯切れの悪い返事をした。

 どういうことだ? ツェラは僕が望めばそれを叶えてくれるんじゃなかったのか?

「はあ、はあ、なあツェラ、はやく……」

「鮎川くん。わたし鮎川くんには走ってゴールしてもらいたいんだあ」

「え? それは、はあ、はあ、どういう……」

「ほら、もう半分だよ! 鮎川くんならゴールまで行ける! さあがんばれー!」

 満面の笑顔でメガホンを振り回す僕の〈絶望〉。そのペダルを踏む足はいっこうに緩めそうもない。

 おい、話が違うんじゃないのか? 異能を使えるなんて言って期待を持たせておきながら、なぜ僕の言うことを聞かないんだ。

 理不尽だ。すごく理不尽だ。このマラソンも、僕の意見に従わないあの〈絶望〉も……。

 もはや顔を前に向ける気力も無く視線を自分のシューズの先に落としたまま完全にスピードを失った僕を後続の選手が追い抜いていった。

「鮎川くんしっかり! 前向いて!」

 僕にしか聞こえない声がそれでも放たれる。ちくしょう。異能も使わずになんだって僕のこと応援なんかするんだよ。応援だけなら猿でも出来るっての。さすがに猿は無理か。いや、チンパンジーなら手を叩くくらいなら……。

 どうやら思考まで鈍ってきたらしい。顎の先から垂れた汗が道に小さな染みを作っていく。

 やっぱり僕はダメなんだよ。ほら、トラウマとかあるからさ。ここまでよくやった方だよ。もう走るの止めたっていいんじゃないか? 誰も気にしやしないさ。

 途端に歩幅が狭まった僕に檄が飛んだ。

「止まっちゃダメ鮎川くん! まだまだだよ、まだま……、ぐえ、ゲホッ、ゴホッ!」

 尋常でない様子に顔を上げた僕はハッと息を飲んだ。

「ツェラ! 危ない!」

 一瞬、え? という表情を作ったツェラがそのまま横に倒れていくのがスローモーションで見えた。前輪がアスファルトを踏み越え、自転車は田んぼへと滑り落ちていった。

 自分のどこにそんな力が残っていたのか分からない。とにかく僕は必死で手を伸ばしていた。

 ズザザッ! と倒れ込んだ全身を衝撃が襲った。

 突然のことに思考が追いつかず、もうもうと上がった砂煙が収まるまで僕は体を硬直させていた。体に激しいが無いと知ると僕はゆっくりと目を開いた。僕の胸の上では〈絶望〉が何が起こったのか分からないといった表情で目をパチクリさせていた。それはまるで自分のくしゃみで目を覚ました子猫のようで僕は思わず吹き出してしまった。

 ホッとした次の瞬間、ツェラの目にじわじわと涙が浮かんできた。ああ、並だって本当に湧いて出るんだなと妙に感心していると、その涙は僕のジャージにポタポタと落ちてきた。

「ちょっ、泣くなって!」

「うっ、ぐずっ」

 ツェラは鼻水を勢いよく啜ると、体を起こして手の甲で涙を拭った。

「あ、鮎川ぐん、へ、平気? ケガとかは、し、しで……」

「大丈夫だよ。この通り、なんともないさ」

 ツェラの下敷きになったとはいえ彼女は概念のような存在。物理的な体重はほとんど無いとみえて僕は一人で勝手に滑り込んだようなものだ。僕としては滅多にしない体を張った行動だったが幸運なことに擦り傷も打撲も無い。

 ジャージの砂埃を払ってからやれやれと田んぼに落ちた不運な自転車を引き上げる。これまた幸いにして水稲に被害は無さそうだ。自転車にもタイヤのスポークには思いっきり泥が詰まっている以外は異常は見られない。

 完全にしょげてしまったツェラが下を向いている。

「鮎川くん。ほんとにゴメンね」

 その言葉を聞いて、僕はようやく自らの愚かしさに気付いた。

 なんで僕はツェラに謝られなければならないのだろう?

 自転車に乗っているとはいえツェラはここまでひとときたりとも声を緩めることなく僕のことを応援してくれた。体力だって奪われているだろうし、喉が嗄れたっておかしくない。彼女はそれほど全力で僕と共に頑張ってくれていたのに、なんだって僕は彼女に頼りきり、一方的な期待が叶えられないと知ると恨みまで覚えてしまったのだろう。

 僕は自分の情けなさにこちらの方が泣きそうだった。しかし、僕が泣いてどうする。おもむろにツェラに歩み寄った僕はその肩をギュッと抱きしめ……、たかったがそんなことは出来ず、肩をポンと叩いた。

「謝らなきゃならないのはこっちだよ。ごめん」

 顔色を探られないように僕は前を向いた。

「さて、レースに戻るか」

 ごまかすように言った僕の横顔を涙に光る瞳が真っ直ぐに見詰めた。

「うん!」

 全開の笑顔を見せてツェラが自転車にまたがった。立ち直りの速さもまた彼女らしかった。

 しょうがない。ここまできたらやってやるか。

 元気いっぱいにペダルを踏み込んだツェラを追おうとして、ふとすくすくと育つ稲の真ん中にやけに鮮やかな黄色い三角形が突き刺さっているのが目に入った。

「ちょっと待ってツェラ! メガホン忘れてる!」

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