第16話 少しだけ遠い日の屈辱
夏まっさかり。
短い夜すら明けるのを待ちかねたように陽光が町に降り注ぎ、家の隙間から夜の残り香を容赦なく追い払っていく。
早朝の公民館前には既に十数名が集い、談笑するものや準備体操に勤しむもので和やかな活気を呈していた。
これはそう、忘れもしない僕が小学校五年生の夏休み、地元で行われたマラソン大会でのことである。
マラソン大会とはいえ地区の小規模な催し物である。参加するのもひと学年につき数名だったろうか。とはいえ僕は公民館の駐車場の片隅でひとり静かな闘志を燃やしていた。
当時から僕には長距離走ならそれなりの力が発揮できるという自負があった。普段の体育では石ころに等しい僕だってマラソンなら人目を引くことが出来るはずだ。いま思えば相当に気負っていたのである。
それなりに人が集まって時間が来ると役員によるコースの説明もそこそこに、ようい、ドン、という号令と、パン、という拍手で大会は開始された。
僕は序盤からハイスピードで飛ばした。しかし、母集団が少数とはいえ元々が運動神経の良いやつらに最初から差を付けるのは難しく、どうにかトップ集団に食い付いたまま折り返し地点を通過した。夏の暑さのせいもあったのだろうか。一人、また一人と脱落していくなか、おのれのプライドを燃焼させ続けた僕はある六年生と二人でトップを争ったままレースの終盤を迎えていた。
足の疲労は限界、呼吸も乱れていたが、僕にだって出来ることを見せつけてやるという意地と、ここまできたら一位になってやろうという思いがけない名誉欲とが僕の足を前へ前へと動かしていた。ほとんど無茶になっていた。
残すところ数十メートル。競っていた六年生がラストスパートをかけた。死に物狂いで食らい付いていく。全力で追いかけたものの最後の最後でスピード勝負には敵わず、けっきょく数メートルの差を付けられて僕は二位でゴールを踏んだ。
足を止めてからも両膝の震えは収まらなかった。いまにも倒れ込みそうになるのをこらえ、僕は下を向いたまま膝に手を付いてゼエゼエと息を吐いていた。駐車場のアスファルトに僕の鼻先から垂れた汗が染みを作っていた。
篠生くん頑張ったねえ、という誰か大人の声が遠くから聞こえた。しかし、それは言葉として認識される前に脳内で霧のように散っていった。肩で大きく息を吸い、ギュッと瞑った目を再び開けると、目の前の地面が紫色になってグラグラと揺れていた。
あ、まずい。
そう思った次の瞬間、僕はアスファルトに朝食をぶちまけていた。
ティッシュティッシュ! と慌てる大人たちに混じって、うわー、とか、きったねー、とか言う声が聞こえた。いつの間にみんなゴールしたのだろうか。周囲には僕と同じ子どもたちの笑い声が溢れていた。吐いてしまえば少しは気分も落ち着いたが、すると今度は恥ずかしさのあまり顔を上げることが出来なかった。
僕の背中をさする人がいた。お礼も言えずに俯いたまま口から垂れる唾液と知らずしらずのうちに目からこぼれていく涙とを絶望的な気持ちで眺めていた僕に気遣いの声をかけ、と思うや顔をティッシュで強引に拭い、篠生くんほらTシャツ脱いで、と服まで脱がせようとするのは他でもない、黒田叶映の母親だった。
言われてようやく気付いたが、僕のTシャツはドロドロに汚れていた。このまま自宅へ歩いて帰るのはさらなる拷問である。俯いたまま手の甲で涙を拭い、言われるがまま着ているTシャツを脱いでから差し出された新しいシャツに袖を通した。見慣れない色彩が目の前を通過するなと思いながら首を出すとあらためて周りからドッと笑い声が上がった。
不審に思いつつ薄めを開けて見たそれは、おそらく黒田の母親が黒田叶映の着替え用に持ってきたのであろうTシャツだったのだが、これがとんでもない代物だったのだ。
目が潰れそうなほど鮮やかなショッキングピンクの下地には本当に買った当初からそこに付いていたのか疑わしいほどの過剰なフリルがあちこちにあしらわれており、胸には一昔前に流行った女児向けアニメのキャラクターがどでかく印刷されていた。これならゲロ付きの方がまだマシなのではないかと一瞬だけ思ってしまったが、黒田母のご厚意はまだありがたかった。
腑に落ちないのは周囲の笑い声の中でひときわ高く、ギャハハハハ、と大声をあげているのが黒田叶映当人だということだ。あろうことか自分のシャツを着た幼なじみを指さして腹も捩れんばかりに爆笑している。まさかこの罰ゲームのためにこんな珍妙なシャツを買ったとでもいうのだろうか。この状況では彼女に近づいて文句を言うことも出来ず、顔面が燃えそうな羞恥心とやつをパーで張り倒したい欲求とに僕はじっと堪えるしかなかった。
そもそもが地元の小規模な催しである。僕以外には誰も本気でマラソンに取り組んだ子などいなかったのかもしれない。もはやゴールは結果そっちのけで僕の無残な姿を口々に笑い合うばかりの会と化していた。
その日のその後のことはほとんど覚えていない。想像するに、そのままの格好で家に帰って、母親に別のシャツを出してもらって着替えてから不貞寝でもしたか、潜り込んだ布団の中で有以さんと黒田母とのあいだで交わされる、まあまあとか、どうもお世話かけましてとか、意外とお似合いですよとか、そんなやりとりを死にたい気分で聞いていたのだろう。
ただ、僕の心の奥底に染みついて消えない点になっているのは、夏休みが明けて登校した僕に、あの時に着た黒田のTシャツの柄から「ゲロキュア」というあだ名が付けられたということだ……。
「鮎川くん! しっかり!」
後ろから浴びせられた声にハッと気を取り戻すと、僕は転ぶ寸前でかろうじ
て体勢を立て直した。
「良かったあ、転んじゃうかと思ったよお。まだまだだよ! がんばれー!」
メガホンを使っているためだろう、ツェラの大声は見晴らしの良い風景一面
に響き渡っている。いつの間にか住宅地を抜けてコースは田園地帯へと至って
いた。田んぼのあいだを突っ切って伸びる道はアスファルトではなく固められ
た土なので幾分かは走りやすい。
併走するツェラの声援によってなんとかトラウマから現実世界へと戻ってく
ることが出来たようだが、喉の奥には何やら酸っぱいものがこみ上げてきてい
た。そう簡単には逃がさないぞとばかりに過去の記憶は現在の僕の足を掴みに
かかってくる。
なにも記憶ばかりではない。いくら長距離走に向いているとはいえ、日頃の
僕の運動不足は不足なんてものではない。日常的には運動皆無に近い僕にとっ
てはレースの中盤で既に体力の大部分が失われているように感じた。
ほんの少し気を抜くだけで呼吸のリズムがめちゃくちゃに乱れる。顎が上を
向く。踏み出す足がよろめく。
「ファイトー! もうすく半分だよ!」
ツェラが競走馬にムチを振るうように自転車の前カゴをメガホンでポンポン
と叩く。いい気なものだと気が弱くなっているがゆえの恨み言さえ思い浮か
び、視線を上げれば陽光が照りつける。文句なしの快晴だ。
ふと、既視感を覚えた。しかもごく最近に目にした光景だ。
いつ、どこで?
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