第15話 遅筋レース

 頭が真っ白だった。

 端から見ればスタート直後に競り合っているのは一部のガチ勢だけで後続集団はその尻にくっついてのんびりと走り出したに過ぎないだろう。けれど、トラックに立つ当人にしてみればいくら後続であっても、耳を覆うシューズの音、ぶつかる寸前の肩、周囲の鼓動や息遣いなどがありありと感じられ、はやくも胸が潰れそうになっていた。

 最後まで走り切れるだろうか?

 まだ序盤中の序盤だというのに僕の心にはそんな不安まで首をもたげていた。

 しかし、第二コーナーを曲がった辺りでそんな僕の頭をフッと正気にさせるものがあった。

 アハハ、という乾いた笑い声である。

 それは選手ではなくグラウンドを見る他の生徒から発せられていた。彼らの指さす方をつられて見ると、スタートと同時に飛び出したガチ勢のさらに先をいって二人の選手がものすごいスピードでトラックを走っていた。

 彼らはいわゆる目立ちたがりというやつで、皆の視線が集まるスタート直後にペース配分などいっさい考慮せずに最初だけ全力疾走でトップを走ってみせることが非常に面白い、きわめて笑いのセンスに満ちたギャグだと思っている輩なのだ。

 最悪だ。なんてくだらない奴らなんだろう。

 僕は自分のマラソンの順位に関心は無いというか上位に食い込もうなどとはそもそも考えていないけれども、この競技に本気で取り組んでいるガチ勢はそれはそれで正しいと思っている。クラスの総合得点のため、そして自分自身の誇りのために真っ向から立ち向かい全力を尽くすことは健全であり、美しい。本人にやる気が無いだけならまだしも、そういった真剣に取り組む選手を愚弄するような行為は断固としてすべきではない。

 憤慨が思わぬかたちで僕に冷静さを与えてくれた。トップの彼らは既に校庭を出て視界から消えている。ここからではどうにもならないが、それでも僕のグラウンドを蹴る足は着実に力を取り戻した。

 グラウンドを一周して後続集団は正門へと向かっていた。そのうちの一人として校舎の角を曲がった僕の目が捉えたのは例の〈絶望〉の姿だった。

「あーきたきた! 鮎川くーん!」

 門扉の脇で手をブンブン振っているのはツェラである。応援だけかと思いきや彼女はちゃっかり僕の自転車にまたがり、前カゴにはいったいどこから拝借したものか目にも鮮やかな黄色いメガホンまで入っている。

「がんばれー!」

 なるべく正面を見据えたまま僕が正門を通過するとツェラはさも当たり前のようにその後を自転車に乗ってすいーっとくっついてきた。

「がんばれー! 鮎川くん、ファイトー!」

「はあっ、はあっ。ええっと、なにしてんの?」

「いけー! がんばれー!」

 僕にしか聞こえない声援を背に受け、僕はコースをひた走った。

 一般道に出てからはだんだんと集団が前後に伸びだした。仕方なしにマラソンに参加している風情の生徒の多くは徐々にスピードを落とし始めた。グラウンドとは異なり一般道はアスファルトで舗装されているので足への衝撃がダイレクトに響くのだ。

 これは下手したら僕だって完走もままならない。まさかツェラの自転車のせいではなかろうが周囲に選手がまばらになったのを幸いに僕は自分の呼吸のリズムを意識的に整えた。

 二回吸って二回吐く。

 フッフッ、ハッハッ。フッフッ、ハッハッ。

 よし、このペースだ。無駄なことを考えずにこれをゴールまでひたすら繰り返せば終わるのだ。

 腕を振り、リズミカルに足を前へ出す。背筋を伸ばして顔は正面を向く。呼吸は二回吸って二回吐く。フッフッ、ハッハッ。

 前を行くランナーを一人追い抜いた。

「おーすごい! 鮎川くん、その調子!」

 そうなのだ。僕は決してマラソンが遅いわけではないのだ。

 昔から短距離走では僕のレーンだけ時空が歪んでいるのではというほど圧倒的に遅く、運動会では決まって惨めな思いをしてきた。跳躍も投擲も苦手なのでスポーツテストはジリ貧。チーム制の球技に至っては反射神経が鬼のように悪いためにパスを取り落とす、派手に空転する、気が付いたらボールが顔面を直撃しているといった凡ミスが後を絶たず、味方チームからの冷たい視線とため息、相手チームからの嘲笑と哀れみとを一身に受けてきた。

 これが仮想のゲームだったらボタンの反応速度の遅さをクソゲーだと罵ってコントローラーを投げ捨てれば済む話なのだろう。あいにく現実にリセットボタンは付いていない。僕は自身を恨み、スポーツそのものへの嫌悪を募らせるだけだった。

 しかし、そんな僕にも唯一ひと並の成績を残せる競技があった。

 それがマラソンなのだ。

 こんなことを聞いたことがある。人間の筋肉には速筋と遅筋という二種類が存在するらしい。その名の通りそれぞれが瞬発力と持久力とに関係しており、これらがどれくらいの割合で備わっているかは各人によって異なるのだという。ある人は速筋七割で遅筋三割、またある人は速筋四割の遅筋六割というように。

 それでいったらおそらく僕は遅筋十割の完全な持久力キャラなのだろう。

 反射神経はいらない。チームプレイのプレッシャーも無い。ただひたすら蓄積される乳酸に堪え、無駄なことは考えず無心で足を交互に動かせば良い。そんなガマン大会めいた競技であるマラソンにだけは僕は秘められた能力を発揮できた。そして、それは運動に関しては苦手意識ばかりの自分にとってたったひとつだけ残された自負でもあった。

 そう、あの悲劇が起こるまでは。

「鮎川くん良いペース! 速いはやい!」

 一瞬だけツェラの声が遠く聞こえたような気がした。そんなはずはない、と自分の中でその声を思い返すと、それはまるで山彦のように脳内を小さく反響した。

 フッフッ、ハッハッ。フッフッ、ハッハッ。

 繰り返される呼吸のリズムが声の反響にフェードインし、複雑なリズムとなって頭の中を暴れ回る。

 ふくらはぎから膝にかけて徐々に増す痛みと疲労感。乳酸の甘酸っぱい囁きが思考を痺れさせる。

 だめだ。考えるな。

 しかし確実に不足しつつある酸素が思考停止の決意すらも鈍らせる。

「鮎川くん!?」

 まずい……。

 もはや止めようもなくあの日の光景がフラッシュバックする……。

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