第13話 空の色だけ夢とおんなじ

 突き抜けるような青空。

 風が耳元を心地よく吹きすぎていく。

 フッフッ、ハッハッ、と刻まれる呼吸は安定したリズムを保ち、交互に振り出す両腕がエンジンとなって駆動する。

 つま先は森を駆ける獣のように地を捉え、両膝のバネが弾き出すように僕の身体を前へ前へと導いていく。

 万事快調だ。

 バテた選手を軽快に追い越す。目を上げれば青空にぽっかりと朝吹さんの顔が浮かぶ。軽く手を上げる。返される微笑みが僕の背に羽根を生やす。

 もうゴールは見えている。ラストスパートだ。ここへ来るあいだに運動部の選手を何人も追い抜いている。クラスメートの誰もが僕を称え、その名は全校に轟くだろう。あの最強の帰宅部員はいったい誰だ? ってね。

 ゴールテープの向こうには地上に舞い戻った朝吹さんが待っている。惜しみなく注がれる憧れの眼差し。僕の身体はいっそうスピードを増す。

 歓声が聞こえる。歓声に交じって別の音が聞こえる。ブー、ブー。吹奏楽部の演奏か。あるいはラッパか、ブブゼラか。ゴールはもう目の前だ。ブー、ブー……。


 ブー、ブー、ブー。

 布団から右手を出して頭の辺りをまさぐる。音の発信源にはなかなか手が触れない。何度か取り損ねた後にスマホの画面をタップする。目覚ましのバイブレーションが従順にストップする。

 夢か……。

 約束通りの独り言を呟いてから布団の中でぐぐうっと大きな伸びをひとつ。起き上がってカーテンを開けるや差し込む朝の陽光に思わず目を細める。思い切って窓も開けて空を眺める。

 雲ひとつ無い全力の快晴。

「体育祭日和か……」

 空っぽの僕の言葉が夢で見たそのままの青空に吸い込まれていく。


 いっそここまで晴れてくれたら諦めもつくというもの。僕はため息を吐きながら学校の駐輪場に自転車を止めた。

 周囲の生徒は僕と同様に皆ジャージで登校していた。というのも本日はジャージでの登校が推奨されていたのだ。当たり前だが全校生徒が同時に更衣室を使うわけにはいかないからだ。

 ジャージで登校。たったそれだけのことで校内全体が浮き足立っていた。陰気な下駄箱から廊下を抜けて教室に入る、その道のりだけでいつもの騒音がいちオクターブくらいキーを上げた。

 誤解されては困るが僕は彼ら彼女らを非難しようというのではない。

 彼ら彼女らはとても正しかった。

 今日この高校で行われるのは運動会ではなく体育祭なのだ。小中学校のときのような健全な身体を育むだとか、規律正しい行動を身につけるだとかいうお題目ははなから無く、体育祭とは文字通り「祭り」だ。日常を脱し、非日常を味わうための祝祭なのだ。いつもと違う学校、いつもと違う友だち、いつもと違う時間。常日頃から僕らを取り巻く目に見えない束縛からほんのひとときでも解放されることが目的なのだから、浮ついた雰囲気に全力で乗っかることはしごく真っ当なのである。

 その雰囲気にどうしても乗れない僕の方が間違っているのかもしれない。ただ、たとえ間違っていようとも無理なものは無理だ。

 周囲のトーンにチューニングを合わせることを早々に放棄した僕はいつものように机に突っ伏そうかと思うが、それはそれで逆にアウトローを気取っているようで稚気じみている気がしたので、とりあえずバッグからスマホを取り出してぼんやりいじっていた。

 学校が見えてくる辺りから自転車の後ろで徐々にテンションを上げ始め、教室に着いた時点でもはや嬌声が奇声に変わってしまったツェラはいつもと違う教室の雰囲気に完全に飲まれて机の周囲をぴょんぴょん飛び跳ねている。屈託という言葉をどこかへ忘れてきたようなその純粋さは我が〈絶望〉ながら恥ずかしいやら羨ましいやら。

 やがてガラッとドアを開けて入ってきた北園先生はいつもの白衣姿でようやく僕はホッと息を吐いた。

「はーい席に着いたー。出席を取りまーす」

 教卓からの北園の一言に、普段であれば飼い慣らされた犬のように大人しくなる生徒たちだったが、なかなか騒々しさが治まらない。しかし、今日ばかりはそれも許されるということか、北園はそのまま出席を取り始めた。

 それを終えると北園は、本日の予定は事前に配信されている通りなので各自おのれの競技の集合時刻には遅れないように、それから手の空いている者はなるべく応援に参加するようにと簡単な指示を出した。そして白衣に手をかけると一瞬でバサッとそれを剥ぎ捨てた。吃驚するクラス全員の前に姿を現したのはこれまで見せたことのないジャージ姿の北園先生だった。

「では、一人ひとりが力を尽くして正々堂々と取り組むように。皆さん、ケガのないよう、楽しく、悔いの残らない体育祭にすること。以上」

 およそクールビューティーで通っている北園らしくない熱のこもった言葉にクラス一同にしばし沈黙が訪れ、直後、オオーッ! という大きな歓声が上がった。

 クラス担任としての北園もまた正しかった。

 口々に健闘を誓い、肩を叩き合いながら教室を出て行くクラスメートたち。テンションが上がりきったツェラはもはやオーオーと唸り声を上げて彼らと共に校庭へと移動していく。そんな後ろ姿を見届けてから僕はグルグルと首を回して入念に肩周りをほぐし、よっこいせ、とようやく腰を上げた。

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