第12話 たまたま聞こえてきたんだよ

「代わってもらっちゃってごめんねえ」

 僕はそろそろと顔を上げた。

 カウンター内の黒田に両手を合わせて謝意をしめす朝吹さんはいつもの制服姿ではなくジャージを着ており、肩にはテニスラケットを下げていた。うっすらと湿り気を帯びたように見える黒髪をときどき耳の上に掻き上げながら少し困ったような表情を作るその姿は普段目にする図書委員としての彼女ではない別の一面を表しているようで、僕の鼓動はいつもとは違うビートで激しく高鳴った。

 突然の大雨に動揺する図書室の生徒に加えて帰宅しようと思っていたけれど雨に降られて足止めを食らった生徒が続々と避難してきて、図書室はにわかにざわめき始めた。そんな騒々しさのなか、僕はカクテルパーティー効果にあらん限りの集中力を注ぎ込み、朝吹さんと黒田との会話に耳をそばだてた。

 そこから分かったことは、朝吹さんは今度の体育祭でテニスに出場するということ。そして、朝吹さんと黒田の所属するクラスは一丸となって今度の体育祭に大変なやる気を出しており、殊にテニスに出場するメンバーに至っては学年優勝の目標を掲げて連日トレーニングに精を出しているということだった。

 自分がそのクラスでなくて良かったと安堵すると同時に、そんな勝手な目標に巻き込まれてしまった朝吹さんへの哀れみに僕は胸を痛めた。

 本日の放課後も近所のテニスコートまで出張っていって練習するつもりでわざわざ図書当番を黒田に代わってもらったのだが、更衣室でジャージに着替えてさあ行こうと下駄箱を出たところで突然激しい雨に見舞われ慌てて引き返し、とりあえず雨宿りがてら図書室にやってきたという。

「ほんとにごめん。黒田さんに慣れない仕事押しつけちゃって」

「いいのいいの。あたし図書室とかあんま来ないから新鮮だし。それにしても雨すっごいねー。なんなの?」

 大雨を引き起こしたのはツェラの能力だが、元を辿ればその原因はこの僕にある。朝吹さんの表情を曇らせ、あまつさえあの黒田に対する詫びの言葉を使わせてしまうとは。思わぬ失策だ。

「それにしてもテニスチームほんと熱心だよねー。ここんとこ毎日練習でしょ?」

「うん。みんなでがんばろうって決めたから」

 クラスのためなら自己犠牲をも厭わないその高貴な精神。今すぐその足下にかしずきたいくらいだ。

「それにね、わたしけっこう楽しみなの」

「へー意外。朝吹さんテニス得意なんだ」

「ううん。わたしほら、基本的に運動は苦手じゃない? でも体育祭は前から好きだったりするの」

 衝撃が僕の身体を通り抜けた。図書委員を務めているくらいだからてっきり朝吹さんは運動なんてクソクラエみたいなこちら側の人間だと思っていたのだが……。まさか体育祭が好きだって? 無駄な徒労の強要と無益な勝敗争いでしかないあの体育祭が? そんなバカな。

「わりと小さい頃から体育祭ってなんか良いなって思ってて」

「そうなんだー。なんかきっかけとかあるわけ?」

「ええと、たまたま子どもの頃にこの高校の体育祭のマラソンを見たことがあって」

 ん、マラソン?

「あーそういえば毎年マラソンコースって朝吹さん家の近所通るんだっけ」

「うん」

「えっ!?」

 思わずあげた声に前の机に座っていた女子生徒が怪訝な顔つきで振り返った。

「鮎川くん、今のはわたしに言ってないよ」

 ツェラが片手を口の横にあててささやく。僕は急いでスマホを取り出し、えーとかまじかよーとかいう独り言を画面に向かって呟いてごまかしを図る。

 しまった。つい大きな声を出してしまった。しかし、朝吹さんに聞こえた様子は無い。一瞬シャツの下に汗が滲んだがセーフだ。

「その日は小学校は休みで、それでうちの前を通るマラソンの選手をわたし家の中からぼーっと見てたんだけど」

「うんうん」

「なんかいいなあ、かっこいいなあって」

「へえー」

「速い選手はすごく速くて風みたいにピューッて行っちゃうんだけど、だんだん後ろの方になってくるとみんな疲れてくるでしょ。でもね、そういう選手もみんな一生懸命で、ゴールに向かって一歩一歩進んでる感じがして、得意なことじゃなくても頑張ってる姿ってかっこいいなあって思ったの。それ以来、体育祭ってわたし実は好きだったりするんだ」

「へー朝吹さんもそう思うんだあ。ふうん、そうなんだあ」

 そう相づちを打った黒田が僕の方へと不敵な笑みを寄越した。僕は慌てて視線をそらせた。僕の出場種目がマラソンであることなど黒田に伝えた記憶は無いはずだが、黒田得意の幼なじみの勘というやつだろうか。まったくおせっかいな勘である。

 さらに厄介なことには今回のおせっかいは黒田だけではなく、そらせた視線の先にもぐるりと回り込んできた。

「ねっ、鮎川くん、ねっ!」

 ツェラは瞳をらんらんと輝かせ僕に何かを求めている。

 窓を激しく叩いていた雨はいつの間にかずいぶん細くなり、黒雲もどこかへ流れ去ったのか、ほとんど晴れ間さえ見えそうな空に回復しつつあった。ツェラの異能は一時的なもので長続きはしないらしい。

 雨やみそうだけどどうせテニスコートぐちゃぐちゃで練習できそうにないから当番代わるよ、という朝吹さんの申し出を、今日はもういいからたまには帰って休みなよ、と黒田が殊勝に断り、ジャージ姿の朝吹さんは、じゃあお言葉に甘えて、と黒田に手を振ってから図書室を出ていった。

 後ろ姿がドアの向こうへ消えるのを見届けると、僕は目を細めて陽光の漏れつつある校庭へとその顔を向けた。

「走るか……」

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