第10話 窓越しの異変

 放課後、またもや僕は図書室へと足を向けていた。

 と言っても小説執筆時代からの惰性ではなく、これにはいちおう理由があった。

 五時間目の授業の終わりにツェラがこの後は図書室へ行くのかと訊いてきたので、僕はいちおう曜日を確認してから努めてなんでもない感じで、まあ行ってもいいけど、と答えた。するとツェラは妙に真面目な顔をして、ぜひ来てもらいたい、いや、行かなければダメだみたいなことを言い、見慣れない様子にこちらが訝っていると、じゃあわたしは先に行ってるから、とビシッとサムズアップを決めてとっとと教室を出て行ってしまったのだ。

 ツェラは何かを目論んでいる風であった。それが彼女の言った体育祭を中止にするなどという大それた発言と関係があるのか分からないが、ともかく面倒が生じるのはゴメンである。穏便に済ませていただきたい。

 そして、僕にはここへ足を運ぶもうひとつ別の理由があった。

 図書室の前まで来ると心臓がトキンと高鳴った。僕の統計に間違いが無ければ今日はあの人が図書当番のはずである。

 ガラッとドアを開け、顔は正面を向けたまま視線だけをすぐ横のカウンターへと素早く走らせる。いるか?

「あ、篠生じゃん」

 偶然にもばっちり目が合ってしまった相手は目的のあの人ではなく僕にとっての唯一の幼なじみであった。

「なんだ叶映かよ」

 ぎりぎり聞こえない音量で呟いたつもりだがよほど落胆したのであろう。うっかり顔に出てしまっていたらしい。

「なによ露骨にイヤそうな顔して」

 なぜかカウンター内に陣取っていた黒田叶映は大袈裟に眉根を寄せてみせたかと思うとニヤニヤと無言で通り過ぎる僕の顔を見詰めた。

「実梨ちゃんじゃないのがそんなにご不満?」

「は? な、なにが? なにを言ってるのかなあきみは?」

 叶映はカウンターの中からこちらに身を乗り出した。

「幼なじみに隠し事なんて水くさいわよー。ていうか、あたしと朝吹実梨ちゃんが同じクラスだってこと忘れたのかなー?」

 勘の鋭い幼なじみほど厄介なものはない。面倒なやつに悟られたもんだが、やつの言うとおり近しい人間を敵に回すのは得策ではなかろう。弱みを握られたと見るか、それとも格好の外堀を発見したと見るかだ。

 まああれだよな、かなんか言って適当にごまかして彼女をやり過ごしてカウンターを離れた。それにしてもなぜ今日に限って図書委員でもない黒田叶映が? 後頭部にニヤニヤ笑いが張り付いているようで心地が悪い。

 完全に出鼻をくじかれたがまあいい。今日はもうひとつの目的があるのだ。

 さて、その目的はと視線を巡らすと待ち人ならぬ待ち〈絶望〉は窓際の席にいた。先に来てなにか準備でもあるのかと思いきや、机に突っ伏してすやすや眠っている。まるで日向ぼっこをする犬のようだ。

 本人が眠っていても他人に関知できない設定は同じなのだろうかと内心ヒヤヒヤしながら小さく声をかけるも起きる気配がないので勇気をふるって柔らかそうな肩をトントンと叩いた。

「むにゃむにゃ。もう食べられないよ~」

「ベタなこと言ってないで起きろって。ほら、ツェラ」

「う~ん、もうこれ以上ペディグリーチャムは……。ん、ふえ? あー鮎川くん、おはよー」

「おはよーじゃなくて。ほら、図書館に来いって言ってたのはツェラだろう?」

「うふ~ん」

 ダメだこりゃ。まだ夢の中にいるらしい。ま、呼び出されたところで体育祭を中止にするなんて無茶をこの子が策略するとはとうてい思えない。

 呼び出されたとはいえ他に予定があったわけではなし、図書当番の朝吹さんがいないのは当てが外れたが、いたところで僕からなにがしかのアクションを起こすわけでもないのだ。

 僕はツェラの向かいの席に座った。今日は久々の快晴なので廊下から暑苦しい体育会系部員の声が響いてくることもない。のどかな図書室。ほがらかな放課後だ。

 さて、と僕はバッグに手をかけた。どのみち僕に残されているのは辛く険しい道のりだ。北園から出された追加の課題を確認しておかなければ。それにしてものどかだな。僕はつい窓の外へ目を転じた。

「たーっ!」

 突然立ち上がったツェラを見上げて思わず口をあんぐりと開けた。

「さ、始めるよ、鮎川くん!」

「は? え、ていうか何を……」

「中止にするんでしょ、体育祭」

 いや、それは確かにそうなんだけど……。唐突な彼女の勢いに僕は思考が追いつかない。

「ちょっと待って。中止にするって何をどう……」

 いくらなんでも破壊的ないしは暴力的な手段に打って出るわけにはいかない。二人で体育祭実行委員会をぶっ潰すとか言われてもそれは困るし、そもそも現実的に無謀である。

「僕にだって出来ることと出来ないことが……」

「大丈夫大丈夫。鮎川くんはそこに座ってて」

 ツェラはその場で両腕を高々と掲げて目を瞑った。そして、スウッと息を吸った。

 二秒。三秒。

 僕は固唾を飲んで彼女を見守った。

 五秒。六秒。

 何も起こらない。

 ……九秒。十秒。

 僕はおそるおそる口を開いた。

「あ、あのさあツェラ。そのポーズってのは……」

「気持ち的なもの!」

「ええっ……?」

「たーっ!」

 再びツェラが雄叫びを上げた。

 驚き半分、呆れ半分。いや、もしかしたらなにか別な感情に動かされて、僕は窓のある方向へと顔を向けていた。


【打ち付ける雨が滝のように流れる窓の向こうは夜みたいに暗かった。空一面には真っ黒な雲が立ちこめていて、そのまま視線を下げればグラウンドには巨大な水たまりがいくつも出来ていた。】


 え?

 僕は混乱していた。一瞬、重苦しい既視感が僕の頭をよぎったものの、直前の記憶がそれを打ち消した。

 そんなはずはない。今日は朝からずっと青空が見ていたはずだ。ついさっきだって……。

 僕の目は大きな水たまりを叩く雨脚を捉え、窓を叩く大粒の雨がそれに覆い被さった。

 やがて僕の耳にザアッという図書室全体を包む音が届くや、廊下からは悲鳴にも似た叫び声が聞こえてきた。

 どうなってるんだ?

 まさか、これはツェラがやったというのか……。

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