第9話 それはあまりにも大胆な

 下駄箱というのはどうしてこうも人をげんなりさせるのだろう?

 小学校も中学校も、下駄箱を通過する瞬間に明るく前向きな気分になれた試しはない。僕らを待ち受ける下駄箱はいつだって光に乏しく、じめじめと湿り気があるくせにざらざらと砂っぽくて、そこは学校という暗い泥沼に僕らを飲み込む巨大な怪物の口の如き恐ろしく陰気な空間だった。

 昇降口を抜けて今日も下駄箱へと足を踏み入れる。久しぶりに晴れた青空をあざ笑うように陽光が遮蔽される。代わりに申し訳程度に点されたライトを頼りに自分の靴箱を開ける。すえた匂いが鼻の奥を突く。

 後ろからツェラがひょこひょこ付いてくる。先日の喜劇めいたやりとりが思い起こされるが、そんなものでこの憂鬱は掻き消えるものではない。

 朝練を終えた生徒が数名、ぶつぶつと何事かを語りながらやってきた。表情のよく分からない彼らに混じり僕は真性の帰宅部としていっそう伏し目がちに上履きを履いて教室へと足を進めた。

 よくアニメなんかで教室のドアを開けるなり「おはよー!」なんて誰に向かってなのか皆目不明な挨拶を高らかに発して入室してくる人物を見かけるが、あれっていったい何アピールなのだろうか? 実際にあんな光景に遭遇したことは一度も無い。あんな強烈な行動をとれる人間が存在するのならば一度お目にかかってみたいものだ。僕は無言で教室に入り、自分の机まで足早に進むと肩から下ろしたバッグを机の横にぶら下げた。

「おっはよーございまーす!」

 まあ、ですよね。言うまでもない。後ろから飛んできたその声の主は僕が連れてきた〈絶望〉である。

「ここが鮎川くんのクラスかあ。人が大勢いる!」

 彼女が僕以外の人間に関知できないことにはもう慣れた。いつもであれば机に座った瞬間にスマホを出してろくでもないニュースサイトをぼんやり眺めたりするのだが、まだスマホを見る度にあの選考結果のことが頭をよぎるのだ。僕は机に突っ伏して寝たふりをする。昨日の夜あんま寝てないんだよなー。そんな空気を背中から発しながら、僕はひたすらにチャイムが鳴るのを待った。後ろでは教室の雑多な音に混じってツェラの些細なことにいちいち驚嘆する歓声が聞こえた。

 ガラッとドアの開く音がしたと思うやざわついていた教室がしんと静まりかえった。

「あー、どーもおはよー」

 そういえばこの人だけは誰ともなく挨拶をして教室に入ってくるっけ。アニメのヒロインと異なるのはそのトーンが決まってダルそうなことだ。

 姿を現したのは一時間目の現国担当であり、このクラスの担任でもある北園先生、その人だった。小さな雌型巨人ともあだ名させる通り、外見こそ小学生が迷い込んできたかと思われるほど小柄でありながら、その眼光は鋭く、小さな身体から発せられる威圧感は校長すらひれ伏すと噂される。その一方で、どこの世界にも物好きはいるもので、一部の男子生徒からは熱狂的に支持され、支持というよりも信仰に近いまでの尊敬を集めている。よく見れば超が付くほどの美形であることがその一因である。全体的にどこか近寄りがたい雰囲気のある教師で、その私生活は一切が謎に包まれているのだが、個人的にもっとも謎なのは国語教師であるにも関わらず常に床に引きずりそうな白衣を着用していることである。

 クラスの全員が粛々と自らの席に戻るのを目を丸くして眺めているツェラの存在などもちろん関わりなしに、本日の日直である野球部の田村の号令で礼をし、授業が始まった。

 どうせ自分以外には見えないのだと分かってしまえばツェラのことでいちいち気を惑わされることはない。僕はどちらかと言えば得意科目でもある現国の授業に集中しようと背筋を伸ばした。ダルさをはらみながらも威厳のある声で北園は第一声を告げた。

「さあて、昨日の放課後に各自のスマホに流しといた宿題だけれども、まずはその答え合わせから始めようかね。まさかとは思うが、まあそんなはずはないとは思うが、万が一にもやってきていませんなどという者はいないだろうね?」

 砂浜のゴミをさーっと洗い流すような北園の一瞥が教室の端から端へ行き渡った。

 え……? 昨日の放課後の宿題って?


「ねー、どうしたのー、鮎川くーん?」

 箸を使うカチャカチャした音にエーとかウソーとかマジカヨーとかいう気の置けない友だち同士の楽しくてたまらないみたいな話し声が教室に満ちている。ただでさえ憂鬱なこの昼休みの時間帯に今日の僕は弁当を取り出すこともせず机に突っ伏していた。耳元に聞こえるのは僕にしか分からない〈絶望〉の声だ。

「みんなお昼食べてるよー。ねー鮎川くーん」

「ああ、言われなくても知ってる」

 ぽっかりと穴が開いたように僕の机の周囲にだけ人はいない。もっとも近くにいる女子でさえ昼食時の僕の存在は完全に意識から消し去っている。こんな教室のエアポケットのような地点からは意外と教室全体の動向が手に取るように把握できるというものだ。もちろん、把握できたからといってそれはなんの役にも立たないのだが。

 現国の時間、昨日の宿題をやっていない旨を申し出るために重罪を出頭する気構えで挙手をした僕に北園はまず静かな笑みを浮かべた。

「ふうん。じゃあ鮎川くん、君には別に課題を出すから」

 叱りつけるでもなく淡々とそう告げる北園の口調は僕の背筋を凍らせるのに十分であった。すぐに授業に戻ったが、授業終了のチャイムが鳴るまで僕の頭は氷点下で沸騰しているような、とても尋常ではない状況がひたすら続いた。北園が教室を退出すると珍しくお調子者の野球部員が僕の元へやってきて、あの北園の宿題をやってこないばかりかそれを正直に告白した僕の蛮勇への賛辞となぜか羨望とを口にして、いやー俺には無理だわー、などと一方的に話して行ってしまった。

 いったいどのような課題が提出されるのか。考えるだけで胃が痛くなるが、それとは別に腹は減るのだから人間とはとかく始末の悪いものだ。弁当にするか。僕はようやく顔を上げた。

「見て! 校庭にいっぱい人が出てきてる!」

 いつのまにかツェラは窓際に寄って外を眺めていた。

「体育祭の練習だよ。頑張ってるよねみんな」

 自分の言葉に我ながら白々しさを覚える。せっかくの昼食を急いでたいらげて校庭に繰り出し、体育祭のために汗を流すなど、僕にはとても正気の沙汰とは思えなかった。

「鮎川くん、そんなに体育祭がイヤなの?」

 ツェラが小首を傾げて机に近づいてきた。おそらく昨晩のキッチンでのやり取りを覚えていたのだろう。あるいは体育祭への嫌悪がそこまで顔に出ていたのか。

「ああ。ゴキブリと聞いて大声をあげる人間がなぜ体育祭と聞いてスリッパを振り上げないのか不思議でしょうがないね」

「ふうん、そうなんだ」

 これから食事だというのに例えがいささか不適切だったか。

「もし体育祭が中止になったら、鮎川くん嬉しい?」

 ツェラは机に手をかけた。

「そりゃあ嬉しいよ。天にも昇るくらいにね」

「じゃあ中止にしてみる?」

 そう言ったツェラの顔を僕は真正面からまじまじと見てしまった。

 この〈絶望〉はいまなんと言った?

 

 体育祭を中止にする……?

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