第8話 コーヒーブレイク
なにか気がかりな夢から目を覚ますと鮎川篠生は自分が一匹の負け犬になっているのを発見した。
ベッドに仰向けになったままどんよりと眼差しを天井へ向ける。訂正しておこう。僕は今朝になって突然負け犬に変身したわけではない。生まれたときからずっと負け犬だったんだ。そのうち妹から腐ったリンゴを投げつけられるだろう。それは背中に命中するだろうか。それとも地べたに転がったそれを僕は意地汚く貪るだろうか。
しかし。今朝に限ってはそれとは別の違和感を感じる。問題は負け犬の方ではなく、なにか気がかりな夢の方だ……。
起き上がってカーテンを開け、ぐぐっと伸びをする。誰も置いてけぼりにしない真っ白な朝の日差しに目をすがめているとスマホが鳴る。有以さんからの朝食の合図だ。おや? いつもより時刻が早い。なにか用事でもあるのだろうかと訝りながら、僕は寝間気のままキッチンへと下りた。
「あ、鮎川くんおはよー」
キッチンのドアを開けるなりはつらつとした挨拶が耳に飛び込んできた。有以さんのでも小楢のでもないその声を夢の余韻のように聞き流して僕はいつもの席に着いた。
「鮎川くん、おはよー」
そもそもキッチンに小楢の姿は無い。既に食べて出たようだ。いつも通り部活の朝練だろう。
「おはよう篠生」
有以さんは手元に視線を落としたまま言った。
「おはよう。コーヒー淹れてるの?」
「なぜか分かんないけど今日はいつもより早くご飯の支度が済んだから。久しぶりでしょう? ちょっと待っててね、これ終わったらパン出すから」
「あ、いいよ。自分のは自分でやる」
僕はいったん座ったイスから立ち上がり、トースターから焼き上がった食パンを皿に乗せた。焼き加減が軽めのものが二枚。有以さんはきっちりセットしておいてくれる。ボウルに盛られたサラダにドレッシングをかけ、トーストと一緒にテーブルに運ぶ。
有以さんは集中している。決して焦らず、細くほそくドリッパーへお湯を落とすその手付きにブレは無い。絶妙な加減で苦みと酸味をまとった黒い液体が一滴、また一滴とポットに滴る様が目に見えるようだ。ここまで芳しい香りが立ちのぼってくる。香りと共に僕の脳裏には在りし日の朝食の光景が幻のように浮かんでくる……。
「フフーッ! あーいい香り。有以さんてお料理も上手だけどコーヒーも淹れられるんだねえ。すごいなあ」
隣の席からなにか声が聞こえる。
「いいなあ鮎川くん、毎日こんなに美味しいコーヒーが飲めて!」
「いや、毎日じゃないよ。有以さんがコーヒー淹れるのってめちゃくちゃ久しぶりだし」
「へー、でもこの香り、なんだか嬉しくなるね! あ、でもわたし苦いのちょっと苦手だからミルクとお砂糖もらおーっと」
「それならミルクは冷蔵庫に入ってるし、砂糖はそっちの……、って。えっと……、なにしてんの?」
彼女は目をぱちくりと瞬く。
「鮎川くん、これから美味しい朝ご飯だよ!」
僕の気がかりな夢は残念ながら夢ではなく現実だった。僕のため息がこうばしい香りに混じって流れていった。
「篠生はミルクと砂糖は入れない派だったわよね?」
ケトルを置いた有以さんが振り返って言った。やっぱり有以さんには僕と〈絶望〉とのやりとりは認識出来ていないらしい。
「うん。……あ、いや、やっぱり今日は入れることにするよ」
テーブルには既にツェラによってミルクと砂糖壺がもたらされていた。
「あんまり久しぶりだったから忘れちゃったわ」
有以さんは小さな声で、はは、と笑った。
コーヒーがあると朝食が急に豪華になった気がする。エプロンをはずして席に着いた有以さんにそう伝えると、そうね、と有以さんは同意しつつ、どこか寂しそうに目を細めた。
「さ、いただきましょうか。コーヒーのお代わりはあるからどんどん飲んでちょうだい」
目を輝かせるツェラに後で君の分も用意してあげるよと伝え、僕は自分のカップにコーヒーを注ぎ、ミルクを少々、角砂糖を三つ放り込んだ。固く踏み固められた雪が解けるように角砂糖はしゅわしゅわと溶けていった。
風が頬を撫でる。
昨日までの雨雲がホウキで掃いたように去って、幾日ぶりかに顔を見せた青空に生クリームのような雲がぽっかりと浮かんでいた。
ハンドルを握る僕とは背中合わせに〈絶望〉は座り、なにが楽しいのか笑い声を通学路に振りまいていた。むろん、その声が聞こえているのは僕ひとりなわけで、追い越し、あるいはすれ違う人々が僕たちを顧みることなどない。そしてそれは今までと同じで、今までだってずっとそうだったのだ。他人に無駄な関心を払うほど人は暇ではない。誰もが自分の人生で手一杯なのだ。
「ねえ」
僕は今朝のことを思い出していた。
「なあに、鮎川くん?」
「今朝、有以さんのご飯の支度、キミが手伝ってくれたんでしょ?」
だからあんなに早く出来上がったんだ。
「そうだよー」
彼女は屈託なく答えた。そこには偉ぶったり、ましてや恩を売ったりするつもりは露ほども含まれていなかった。
「なんていうか、その、ありがとう」
〈絶望〉はふふっと笑った。
「ええっと、その……」
慣れない感謝の言葉を口にしてしまってから次の言うべきことが続かず顔ばかりが熱くなる。
「ツェラ!」
高らかに自分の名前を告げる声が響いた。
「わたしのことはツェラって呼んで、鮎川くん!」
「うん、分かったよ。ツェラ」
あははっと歌うような声を背中に乗せて僕は自転車を漕いだ。まだまだ始業時刻には余裕があるけれど、火照った顔に涼やかな風を受け、僕はさほど重くはないペダルを無闇に力いっぱい踏み込んだ。
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