第7話 最期の一個は
もはや待てを命じられた大型犬の如きツェラ。舌なめずりこそしなかったものの完全に目の前に広げられた夕食に視線が釘付けになっていた。
あらためて奇妙なのは有以さんと小楢がまったく彼女の存在に気が付いていないことで、僕がテーブルにこぼした麻婆春雨を始末してしまうと二人は何事も無かったかのように雑談を再開した。
そういうことなら、と僕は大胆な行動に出た。
「ね、ねえツェラ。何しに来たんだい?」
思い切ってツェラに話しかけてみたのだ。案の定、有以さんと小楢に変わった様子は無い。予想通り、存在そのものが、という以上に、彼女に関する事象のすべてが僕以外の人間には認識出来ないと見える。たとえ僕が彼女に話しかけたところで彼女との会話である以上それは誰にも会話として認識されないのだ。
「だってなんだか美味しそうな匂いがしたから……」
ほとんど涙目のツェラが訴える。たとえ〈絶望〉といえども涙を見せられては弱い。
「あらためて確認なんだけど、有以さんたちは気付かないんだよね?」
「うん……」
「じゃあ少しだけならいいよ」
「やったあ!」
言うが早いかツェラはその場でバレエダンサーのようにくるりと回転して空いているイスにストンと腰を下ろした。あ、そこは、と言いかけて、まあいいかと僕は言葉を飲み込んだ。なぜだろう? 彼女が父親のイスに座ることに不思議と違和感は感じられなかったのだ。
あんみつとみつまめの違いについて議論を始めた有以さんと小楢にはいっさい臆することなくツェラは大皿へ手を伸ばし、プチトマトをひとつ摘まむとぽいっと口の中へ放り込んだ。ツェラは幸せそうに目を細めた。
大皿からは確実にプチトマトがひとつ無くなっているが有以さんと小楢の様子に変化は見られない。客観的に見ればまったく奇妙なことであるが、考えてもしょうがないので僕もまた食事を再開した。
三人から四人へ、食卓を囲む人数が増えた本日の夕食。有以さんと小楢の議論はあんみつとみつまめにまめかんが加わって三つ巴となり膠着状態を呈していた。すると議題は急に脱線して有以さんが僕に話を振ってきた。
「そういえば今日スーパーで叶映ちゃんに会ったわよ」
「へえ」
これまで二人の会話には観客気分だったので不意を突かれた僕は気の無い返事を返した。
「聞いたわよ、体育祭があるんだって? 篠生も水くさいわね。そういうことは前もって言ってくれなきゃあ。張り切って準備しておげるから」
叶映のやつ、余計なこと言いやがって……。
黒田叶映。いわゆる幼なじみというやつだ。まさか高校まで同じ学校に通うことになるとは思わなかった。今となっては僕に向かって気安く話しかけてくる貴重な女子ではあるが、いかんせん僕とは正反対の人間でとにかく明るくて活発。この世に悩み事などひとつもないようなあっけらかんとした性格は高校でも多くの友人に恵まれ、青春を謳歌している。別に羨ましいとかそういうのではない。
「ああ、忘れてた」
僕は努めてそんなものには興味が無いという風を装う。いや、装うというのは違う。はっきりと僕は本心から体育祭などというものに興味や関心などこれっぽっちもないのだ。
「えー! お兄ちゃんなんに出るの?」
ほら。小楢が一瞬で食い付いてきた。
「別にいいだろなんでも」
小楢を軽くあしらって僕は味噌汁を音を立てて啜る。
「篠生、別によくないわよ。種目によってお弁当の卵焼きを梅じそ風味にするかキムチ風味にするか変えなきゃいけないんだから」
「そうだよお兄ちゃん。卵焼きだよ」
有以さんの理屈も分からないが、僕は渋々答えた。
「マラソンだよ」
「マラソン……、て、あの?」
マラソンにあのもそのもあるか。
「そう、長距離走」
「うわっ、地味ー!」
小楢の失礼きわまりない発言。僕は無視して口を動かす。ツェラは話を聞いているのかいないのか、竜田揚げを摘まみ上げる。
「で、何キロ走るの?」
「10キロ」
「なんだ余裕じゃん。あたしなんて毎日それくらい走ってるよ」
「小楢と僕とじゃあ体の繊細さが違うんだよ。僕の体はガラス細工並に壊れやすいんだ。小楢なんてほとんどログハウスだろ」
「ログハウスかっこいいじゃん。でもお兄ちゃん、間違ってもビリにならないでね」
小楢は言葉とは裏腹にまるで僕がビリになることを期待しているかのようににやーっと笑った。
「ほんとよ篠生。ビリならまだマシよ」
「マシ?」
「また小学校のあのときみたいに……」
小学校のあのとき……。
有以さんはたまに悪気が無いままに人のトラウマに触れてくることがある。あれは小学校時代を通じて僕がもっとも思い出したくない出来事であり、今度の体育祭をこんなにも意識から遠ざけている根本の理由でもある。
ダメだ。これ以上この話題を続けていたらまた僕の胃液が逆流を始めかねない。慌ててご飯の残りをかっこむと、僕は茶碗を置いた。
「ごちそうさん」
一足先にイスを引いた僕に有以さんが声をかけた。
「あら、竜田揚げあとひとつ残ってるわよ」
「いいよ食べて」
僕はそう言ってからハッと視線を滑らせた。いままさにツェラが片手を持ち上げて最後の竜田揚げに掴みかからんとしているところだった。
「ツェラ、それはいけない!」
僕は思わず叫んだ。鋭く伸びたツェラの右手は竜田揚げを通り越し、プチトマトを掴んだ。別の方向から同時に伸びてきた小楢の箸が竜田揚げを串刺しにした。
「じゃあお兄ちゃんの代わりにあたしがいただいちゃおーっと」
いったいあそこでツェラが最期の一個の竜田揚げを食べてしまったらどうなっていたのか。想像すると生きた心地がしなかった。ともかく幸せそうに口をモグモグさせる妹と〈絶望〉とを見やり、自分の食器を食洗機にセットすると、僕は幽霊のような足取りでキッチンを後にした。
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