第6話 どこにでもある風景

 キッチンのテーブルには既に大皿小皿が整えられ、母親の有以さんと妹の小楢が席に着いていた。

「おまたせ」

 イスを引いて座った僕に小楢が何か言いたげな視線を向けた。しかし、部活上がりの中学生とあらば兄への文句より空腹感が上回って然るべきである。

「さ、いただきましょ」

 有以さんの声を合図に三人で手を合わせた。

 いただきます。

 ご飯に豆腐の味噌汁。中央を占める竜田揚げにはプチトマトが添えられ、その脇で湯気を立てているのは小楢の好物の麻婆春雨だ。小鉢に盛られたほうれん草のおひたしが彩りを加える。

 高価な食材こそ無いかもしれない。けれど見た目と香りに空腹が鳴き出すには十分に贅沢な食卓だ。

 テーブルの三方向からいっせいに手が伸びる。特に小楢の食べっぷりといったらすさまじいものがあった。麻婆春雨を直接ご飯にオンしてかっこむその一連の動作はもはや的確な工業機械すら思わせる。

 ほとんどあっけにとられる僕をよそに二度目のご飯のおかわりをよそって席に着いた小楢はようやく人心地ついたのか、それでも箸を忙しなく動かしながらいつもの調子で話し始めた。とはいえ中学一年生だ。昨今の政治動向に関心が及ぶわけもなく、たいていたわいない学校での出来事が話題の中心となる。

 先週より女子バレー部の顧問である体育教師が産休に入ったため、代わりに現国を担当するまだ若い先生が女バレの練習を受け持つことになったのだという。しかし、この新米教師のどうにか女バレを良い雰囲気に持っていこうと奮闘するその様が明らかに本人のキャパシティーをオーバーしており、生徒以上に汗だくになって掛け声をかけたりするのを三年生の先輩たちからは逆に心配されるほどだったが、今日の放課後、とうとう体育館で倒れてしまったのだそうだ。

「あら大変」

「でしょ? ほんと笑いごとじゃなかったんだから。慌てて男バレの先生とか呼んで、お水飲ませたりとか、タオルで仰いだりして。そんでちょっと良くなってから先輩たちで抱えて保健室まで運んだんだけど」

「大丈夫だったの?」

「うん、みたい。さっき連絡来てたから」

 なるほど。小楢の帰宅がいつもより早かったのは顧問が倒れたおかげで早々に部活が解散になったということか。

 小楢のいつも通り賑やかな話に有以さんが大袈裟に驚いたり頷いたりする。それを適当に聞きながら僕がときどき相づちを打ってみせる。

 どこにでもある、ごく一般的な家庭の風景だろう。

 変わっているとすれば食事をとる三人とは別にテーブルには一脚のイスが置かれていることだろうか。

 そしてそこにはもうずいぶんのあいだ誰も座っておらず、これからも座ることがあるのかどうか、僕たちには分からない。

 

 父親が家を出ていったのは一年前のこと。

 

 それは唐突と言えば唐突であり、あらかじめ準備されていたと言われればそうとも言える。どちらにせよ残った僕たち三人の驚きはほんのひとときのことであった。それぞれがそれぞれに事情を汲み、理解し、それぞれがそれなりの納得でもって受け入れた。

 もちろん寂しかったし、悲しかった。僕の絶望の原因の一部を父親の出奔に負わせることだって可能だろう。あの日以来、進学というこの町を出て行くためのひとつの可能性は閉ざされてしまったのだから。つまり僕には父親を責めることも、なんなら恨むことだって出来たはずだ。

 けれど僕はそれをしなかった。僕だけじゃない。有以さんも、小楢も。

 僕たち三人は誰もキッチンからそのイスを撤去する意思を持たなかったし、何も言わなくてもその意思は共有されていた。

 要するに今までと変わりなく過ごすことを選んだ。それだけのことだ。

 とはいえ父親のイスは今では小楢の荷物置きになったり、有以さんのエプロン掛けになったりと、意外とぞんざいな扱いを受けているわけだが……。

 

 小楢の箸がまた麻婆春雨の皿へと伸びた。中学生ともなれば徐々にダイエットだとか体型を気にし始める年頃だろうが、小楢の食欲はそんな世間体などいっさい眼中にないかのようでいっそ清々しい。いや、見とれている場合ではない。僕だっていちおうはまだまだ成長期にあるティーンだ。食いっぱぐれるわけにはいかない。

 自分も麻婆春雨をご飯にオンへと乗り出すべく箸を上げると、視界の端に何か動くものを捉えた気がした。なんだろう? と思いつつ、なるべく頭に浮かんだ疑問符を隅っこに追いやって春雨をつかみ、ぐぐーっとうえに引き上げたところで確かにキッチンのドアの隙間から覗くそれを見てしまった。

 否定で押し切ることは出来なかった。あのくるくると縮まった巻き毛。興味に漲った眼差し。ドアを半開きにしてそこから羨ましそうな視線を送ってくるのは間違いなく僕の〈絶望〉。ツェラであった。

 なにやってんだあいつは!

 箸を宙に浮かせたまま部屋に戻れと目だけで合図を送るも無茶な相談だった。僕の不器用なウインクをどう受け取ったものか、うんうんと何遍か頷くや、なんとツェラはドアを全開にして堂々とキッチンに入ってきた。

「ちょっ、ちょ!」

「えっ!? 何やってんのお兄ちゃん!」

「あらまあ。ほら篠生、台ふきん」

 ご飯の上を豪快に外してテーブルに直接オンしてしまった麻婆春雨を取り皿に拾い上げ、有以さんが手渡してくれた布巾でテーブルを拭きつつも、あまりにも大胆に近づいてくるツェラから注意を逸らすことなどとうてい出来はしなかった。そして、彼女の目はがっちりとテーブルの上に固定されていた。

 慌ただしく中断された食卓へとまもなく到達したツェラは小楢の真横に立ち、眼下に広げられた皿を一つひとつ舐めるように見回した。そして顔を上げるや僕の目を真っ直ぐに見据えた。

 

 グウウウウ。

 

 だろうと思ったよ……。もちろん盛大な腹の虫の音を聞いたのは僕ひとりきりであった。

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