第5話 わたしの知っていることは

「あらためて確認しておきたいんだけど……」

 床にぺしゃんと尻をついて見上げる女の子をベッドに座るよう促し、やっとイスに腰掛ける僕と視線が同じ高さになったところで僕は訊いた。

「君は僕の〈絶望〉だってそう言ったよね?」

「そうだよ」

「それはなんらかの比喩表現とかではなく〈絶望〉そのものだって」

「うん」

 彼女はいわゆる人間ではない。そこは納得しよう。

 思い返せば学校から帰るときだって自転車に女の子と二人乗りだなんてただでさえ人目を引きそうなものを、後ろの彼女は傘を振り回しながらわあわあとなぜか楽しげに声をあげていたが、特にそれで周囲から視線を感じることはなかった。大雨だったとはいえ、普段から他人の視線を何よりも気にする僕が気付かなかったのだから、彼女の言った、他の人には見えない、というのは本当なのだろう。

 さっき妹と急接近したときも、妙に勘の鋭いあの小楢のことだ、浴室に先客がいることを察知しても不思議ではない。この僕が自宅に女性を連れ込んだとなったら上を下への騒ぎを起こすはずだ。それも無かったということはいま僕の目の前にいる彼女は見えないばかりではなく、存在そのものが他人には知覚できないのかもしれない。

「そして、そんな〈絶望〉さんがなぜ僕のところへやってきたのか、それは君じしんには分からないと」

「うーん……」

 腕組みをした彼女の体がベッドの上でゆっくりと傾いていく。

「あーいいよいいよ。分からないのならしょうがない。無いものはいくら考えたって無いんだから」

 コテンと倒れる寸前で彼女の無理な思索を止める。体勢を立て直した彼女は僕の言葉をどう受け取ったものか満面の笑みを作った。

 彼女をしつこく追求したところで仕方ない。ともあれ今後の方針を探るうえでなにか手がかりのようなものが欲しいのだが……。

「そうだ。根本の理由は分からなくてもある程度まで記憶は遡れるかな?」

「記憶?」

「そう。今日図書室に来るまでのこととか。あんなにびしょ濡れになってたってことは学校の外から来たんでしょ? そもそもどこからやってきたんだい?」

「それも良く覚えてないの。夢中で走ってるうちに学校まで着いちゃったって感じかなあ」

「覚えてないか……」

「なんかすごく寂しい景色のところだった気がするけど……」

 ううむ、と僕もつられて腕組みの姿勢で天井を見上げる。

 しばし訪れた沈黙。するとその沈黙を破って、ブブブ、とベッドの足下でバッグが震えた。何事かというように〈絶望〉は目を丸くした。

「ああごめん。驚かなくていいよ。たぶん夕食の合図だから」

 バッグを引き寄せてスマホを取り出す。階下の有以さんから着信が来ていた。僕がシャワーを浴びているあいだに帰ってきたんだっけ。

「鮎川くん、先端だねえ」

 スマホを操作する僕へ向けて〈絶望〉は身を乗り出した。

「え? なにが?」

「それ。なんていうんだっけ、ケータイの良いやつ」

「ケータイの良いやつ? 別に普通だけど。むしろ古い機種だし」

「パカって開くやつじゃないの」

「それってフィーチャー・フォンのこと? いないなあ、周りに使ってる人。なに、あれが好きなの?」

「ううん。やっぱりこういう触るやつのがカッコいいや」

 触るやつとはタッチパネルのことを指しているのだろうか。スマホが先端とはいつの時代の感覚だろう。

「それで、鮎川くんはこれで何を見てたの?」

 彼女が興味津々に訊ねた。

「いま有以さんからご飯だって連絡」

「じゃなくて、図書室で」

「ああ、あれは文学賞の結果で僕の応募した小説が落選したっていう……」

 そこまで言って僕は口を噤んだ。

 思い出した……。

 全身ずぶ濡れの彼女が目の前に現れてからというものドタバタの連続ですっかり頭から抜け落ちていた重大な選考結果。作家になるという僕の夢が打ち砕かれた瞬間。

 この〈絶望〉の街から出て行くための僕にとっての唯一の進路が重い音を立てて閉ざされてしまった今日という日……。

 そうか、とひとり呟いて僕はゆっくり立ち上がった。部屋の出口へと一歩二歩と足を進めながら、そういうことか、と一切の解決を呼び込まない納得のような思いを頭に巡らせた。そもそも光の無い世界であれば、目の前のドアをいくら開けたところでそれは別の暗闇へと足を踏み出すことにしかならないのだ。

「じゃ、悪いけど夕食にしてくるよ」

 力なくそう言った僕に〈絶望〉が付いてくる気配は無かった。

 ドアノブに手をかけたとき、ふとこんな質問が僕の口をついて出た。

「君、名前はなんていうの?」

 後から思うに、それでも僕は自分の〈絶望〉は自分のものであってほしいと願っていたのかもしれない。僕が僕であることのせめてもの証しを。たとえ何も見えない、伸ばした手の先すら分からない暗闇であっても、その暗闇を見据える目だけは僕のものであってほしいと。

 振り返った僕にベッドに座った〈絶望〉は弾けんばかりの笑顔で答えた。

「ツェラ! わたしはツェラ! これだけは覚えてるんだあ!」

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