第4話 妹は危機として帰宅する

 ひとつ、ふたつ、みっつ……。

 カーペットに染みた足跡に視線を落とし、僕は頭を抱えた。

 なんでこうなってしまったんだろう……?

 いまを遡ることたった数分前である。玄関を開けて振り返るとさっきまで自転車の後ろで傘を振り回していた例の〈絶望〉を名乗る女の子が両手で二の腕を抱えて小刻みに震えている。いったいなんのための傘だと僕じしんのひどい濡れ様をとりあえず脇に置いて、そんな格好じゃあ風邪ひいちゃうよ、先にシャワー浴びてきなよ、と彼女を家にあげて浴室を案内してやった。

 なにも間違ったことはしていない。

 強いて言えば、先にシャワー浴びてきなよ、などという台詞をこの歳で恥ずかしげもなく口にしてしまったことであるが、濡れた靴下のまま階段を上って後ろ手に自分の部屋のドアをバタンと閉めた瞬間、猛烈に熱いマグマが僕の内に湧き上がってきた。

 で、この後どうする?

 まだ事態が全然はっきりと飲み込めていない。彼女の言う〈絶望〉をいったいどのように受け止めていいものか。しかし、直近の問題は、それが〈絶望〉であろうとなんであろうと、初めて会った女の子を自宅のシャワールームに招き入れてしまったことである。

 闇雲に行動するよりは冷静に思考する方が賢明である。落ち着け。落ち着くんだ。僕は足形に濡れたカーペットの染みを無心に数えた。

 幸いにして現在この家にいるのは僕と〈絶望〉だけ。有以さんの定時までにはまだ少し時間があるし、小楢は今頃はバレー部の部活動で汗を流しているはずだ。中学校なら雨で部活が中止になることもあるかもしれないが、幸いにしてバレーボールは室内競技だ。悪天候だからといって中止になる謂われはない。

 僕以外の家族である二人が帰宅するまでにはまだだいぶ時間がある。〈絶望〉がシャワーから上がってからだって今後の動向を練る余裕は十分にあるだろう。

 良かった。小楢がソフトボール部とかじゃなくて本当に良かった。

「ただいまあ! あーもうびしょびしょ!」

 立てられた瞬間に奪取されるビーチフラッグとはこんな気分だろうか。

 聞き間違えようがない。玄関で自らの帰還を告げるのは妹の小楢の声だ。今日は部活動のはずじゃなかったのか!

「ああっ。お兄ちゃん濡れたまま上がったでしょ! いっぱい足跡ついてるじゃないの、もーお」

 非難の声に続いて通学バッグを三和土の上にドサッと下ろす音。さらに二階に向けて大声を響かせる。

「お兄ちゃん! あたしちょっとシャワー浴びるから、洗面所使うからねー!」

 いつもであれば、おー、と生返事でも返してさして気にも留めないところである。だが、今日に限ってはまずい。非常にまずい。

 僕は足跡を増やすのも構わず廊下へ飛び出した。

「小楢、ちょっと待った!」

 玄関では小楢が靴下を脱ごうと片足を上げた姿勢のまま硬直していた。

「うわっ! なになに、どうしたの?」

 階段を駆け下りる実兄の姿がそんなにも珍しいのだろうか? とにかくいまはそんなことどうでもいい。

「シャワーは待った。ちょっと待った」

「え、ていうかお兄ちゃんびしょびしょじゃない! その格好のまま部屋にいたの? もお、有以さん怒らせるようなことしないでよね」

「大丈夫、すぐ着替えるから。あ、そうだよ! ほら、お兄ちゃんびしょびしょだろ? シャワーは僕が先に浴びるから。小楢はそんなに濡れてないじゃないか」

「えー濡れてるよ、ほら、足とか」

 小楢は脱いだ靴下をこれ見よがしにぶら下げ、肩で僕を押しのけた。こちらの止める間もなく廊下をずんずん進むと浴室のドアに手をかけた。そのガラス戸の向こうに人影がゆらりとゆらめくのが見え、ああっと声を上げる寸前であった。

「ジャン、ケン!」

「えっ?」

 小楢が空いた方の手を上げて振り向いた。反射的に僕もまた手を上げる。

「ポン!」

 しまった。小楢の常套手段、困ったら不意打ちジャンケン作戦だ。この場合に僕がとっさにグーを出してしまうことを奴は熟知している。

 だがしかし。今日は違った。

「えー、うそー。なんでグーじゃないの? ていうかなにそれ?」

 小楢は自分の出したパーと僕の手とを見比べた。

「指が二本。どう見てもチョキだろ。じゃなかったらなんなんだ」

 妹の背後に揺れた人影に思わず反応したのが功を奏し、僕の出した右手は親指と人差し指とが見事に伸びたチョキである。

 そういうの田舎チョキって言うんだからね、と所以の無い暴言を吐き捨て、小楢は玄関に放り出したバッグを肩に自室へと駆け上がっていった。

 ふう、と僕は深く息を吐いた。

 しかし、困難は依然として僕の数十センチから1メートルくらい先、ドアを一枚隔てたところに存在していた。

 僕はドアノブに手をかけたまま声を落とした。

「あー、ええと、今のやりとり聞こえてたかもしれないけど、妹が帰ってきたんだ。そんでもって、僕はこれからシャワーを浴びなきゃいけない感じになったんだけど……。聞こえてる?」

 なにやら詳細は知れないがごそごそと物音が聞こえる。

「うん。小楢ちゃんはいま何年生なの?」

 この状況で妹の学年はどうでもいい。

「中一。でもってその、君の服が乾くまでもし無理だったらとりあえずその、そう、浴槽の中にでも入っててくれたりするかな?」

「浴槽?」

「たぶんまだお湯は張ってないと思うから。寒いだろうけど少しのあいだだから我慢しててほしい。で、あっち向いてて、僕が目をつむってシャワーを浴びて速攻で出るから、その後は、そうだな……。また考えよう」

「分かった!」

 軽快な返事に一抹の不安を覚えないでもないが、こうなったら覚悟を決めよう。僕は僕で帰宅直後にあんな台詞を吐いてしまった責任とやらをとらなければいけない。これは僥倖などではない。断じて。

 よし、と心の中で呟いてから僕はドアを開けた。

 そこにはひらひらの服をまとった〈絶望〉がにっこりと笑みを湛えていた。

「乾燥機って便利だねー。初めて使ったよ」

「ああ、そう」

「えーと、わたしはどこに入ったらいいんだっけ?」

 彼女に部屋に戻るように言い、僕はようやく靴下から脱ぎにかかった。濡れた靴下は足に絡みついて離れず、たった一足を脱ぐのにずいぶん苦戦した。

 ん? 僕の応募した小説ってライトノベルだったっけ?

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