第3話 その下駄箱の片隅で
熱血漢の体育教師。こう聞けば僕のような人種は反射的に眉をひそめてしまうのだが、裏を返せばクラスで目立つことのない帰宅部の立場においては通常であれば学生生活でほとんど関わりを持たずに済む類いの人物でもあるということだ。
だがしかし、吉増は違った。この体育教師はある意味では良い先生だったのだ。
僕のような日陰者にもクラスの人気者と同等の扱いをし、声をかけ、なにより生徒の名前を覚えることにかけては異常な記憶力を持っていた。
無論のこと、それを余計なお世話だと厄介がる生徒も多数存在した。特に僕のような人種からはほっといてくれと逆に邪険にされることもあったようだ。個人的にそういう気持ちも分からないではないが、それでもあらゆる生徒に対して偏見を持たずに接してくる吉増のやり方を間違っていると断じる潔さを僕は持っていなかった。
というか、僕の目から見て、吉増の態度はけっして人気取りのためとかではなく、単に本人の空気の読めなさ、天然さから来ているものと思われたのだ。
とはいえ、今回ばかりは状況がまずかった……。
一年中変わらないピチピチのジャージを着た吉増はどういうわけか片手に裸の竹刀を握りしめ、僕と女の子に疑り深いまなざしを向けていた。たしかあの人の顧問は卓球部のはずだが……、という僕の疑念もこの状況では追求する余地は無かった。
「あ、吉増先生。あの、これはですね、その……」
ひと気の無い放課後の下駄箱で女子と二人きり。しかも相手はどうやら本校の生徒ではなく、頭からつま先まで全身びしょ濡れとあっては、ごく健全な学園生活のいち場面ですと主張する方が無理というものだ。
なおも目をすがめて僕たちを観察する吉増に僕は女の子をほったらかしでしどろもどろの言い訳を続けた。
「いや、これはですね。あの、ほんとにそういうのではなくてですね、僕もよく分かんないっていうか、この子が急に……。いや、じゃなくてその、この子がっていうか……」
「ん? この子? なに言ってんだ一人で」
「え?」
一人? いま吉増は一人って言ったのか?
「ええと、先生。それはどういう……」
困惑する僕をやはり意味が分からないといった表情でしばらく眺めていた吉増。だが、突然ハッと目を見開いたかと思うと大声を出した。
「ああ、そういうことか!」
吉増は太い眉を上げて完爾と笑った。
「なんですか急に?」
「おっとこれは失礼」
うって変わって声をひそめた吉増は悠然と歩み寄ってくるやどぎまぎする僕の耳元に口を近づけた。
「鮎川、あれだろ。誰もいない下駄箱っていったらあれしかないだろ」
「あれっていうのは?」
「とぼけることはないぜ。いやあ悪い悪い。青春の大事な1ページを邪魔ちゃって」
「えっと……」
「あれだろ? こいぶみだろ。こ・い・ぶ・み」
「こいぶみ……、ってまさかラブレ……」
「あー、皆まで言うな。安心しろ。先生こう見えても口の堅さにかけては折り紙付きだからな。学生時代は黄金の吉増って言われてたほどなんだぞ」
黄金が鉱物の中でもどれほどの堅さなのか分からないが、吉増はぽかんとする僕の目の前にビシッと親指を立てた。
「鮎川、お前なかなかやるじゃない!」
そう言い残して吉増は体育館の方へと体を揺らして去っていった。
なんなんだ、あの先生は……。
気圧されはしたものの、危機は回避できたらしい。それにしても気がかりなのは吉増の一連の言動である。僕の体の陰に隠れて見えなかったはずはない。僕は隣に立って体育教師の後ろ姿を興味深げに眺めている女の子に声をかけた。
「ええと、さっきの質問なんだけど、君は僕の何って言ったかな?」
「わたしは鮎川くんの〈絶望〉だよ」
「それはなにかの比喩ってこと?」
「ひゆ?」
「その、ものの例えみたいな。絶望的な何かを表してるとか」
「ううん。わたしは鮎川くんの〈絶望〉そのもの。〈絶望〉だから普通の人間とは違くて、もっとふんわりとした、空気みたいな? 目には見えないような感じのもの」
「目には見えない……」
「そう。だからさっきの先生もわたしのことは見えてなかったでしょ!」
すごいだろうとばかりに胸を張る。
そう聞いて驚くには今日の僕はいささか疲れてしまったらしい。とりあえず納得しようと試みたところで僕の脳内は表面いっぱいにコーヒーを注いだカップにミルクを注ぎ足すが如く、中身は混乱を増しながら縁からどんどん溢れ出ていってしまう。エントロピーの増大という言葉を生まれて初めて実感している。
にんまりと笑っていた女の子は急に顔を歪めたかと思うと両手を顔の前に持っていった。
「へくしっ! へくしっ!」
続けざまに二度。
「そんな格好じゃあくしゃみも出るだろうさ。ちょっと待ってて、荷物取ってくるから」
彼女をその場に残して図書室に駆け戻った。図書室ではところどころに座った生徒たちが誰ひとりとして僕に注意を向けることなく、先ほどとまったく同じようにそれぞれの活動に勤しんでいた。まるで何事も起こらなかったように。
僕は机の上に放り出してあったスマホをバッグに放り込み、それを肩に担いだ。ドアを出る瞬間に横目で窺うと、カウンターの中では一年生と思しき図書委員がカウンターの下でコミックを広げていた。
廊下で腕立て伏せに励む野球部員のすり抜けて下駄箱へ戻ると昇降口から降りしきる雨をぼんやり眺めていた〈絶望〉がずずっと鼻を啜った。
「傘は一本しか無いし、チャリだから濡れるかもしれないけど……、ってもう濡れてるか。まあいいや、無いよりはマシだと思う」
「ううー、かたじけのうございます」
よし、とりあえず帰ろう。
指を指すと先に駆け出してしまったので駐輪場まで一緒にダッシュする。屋根の下で雨を払いながら訊けば自転車の後ろに乗るのは初めてだがきっと平気だと言う。そればかりかサドルにまたがると気を利かせて自分が傘を持つと言うのでお言葉に甘えさせてもらう。
「さあ行くよ!」
普段の僕の口からは滅多に発せられることのない掛け声をあげて大雨の中を漕ぎ出した。彼女の姿は人には見えないというのだから、それを信じるなら誰かの視線を気にすることはない。後ろで傘を差してくれているわりには全力で雨が顔面に降りかかってくるのだがそれももはやたいした問題ではない。
「ねえ、鮎川くん」
「なんだい」
口の中に容赦なく雨が吹き込んでくる。
「さっきの先生が言ってたことなんだけど」
「吉増先生ね。なにか気になることでもあったかい?」
「こいぶみってなあに?」
肩に後ろから手が乗せられている以上ここで急に立ち漕ぎをするわけにもいかず、僕は半ばやけくそになってペダルを踏み込んだ。
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