第2話 わたしは〈絶望〉だよ

「鮎川くーん、どこ行くのー?」

 ペタペタという足音を引き連れて廊下を早足で進む僕を筋トレ中の野球部員がチラリと見た気がした。

 胃の底からこみ上げてくる恥ずかしさに堪え、ほとんど目を瞑ったまま夢中で僕は歩いた。こうして女の子と手を繋いで校内を歩くなど自分とは別の種類の人間のすることだと考えていた僕は、鏡を見なくてもいまの自分の顔が真っ赤に染まっていることが知れた。

 もしこんなところをあの人に見られたら……。

 そんな想像がよりいっそう僕の歩調を速めた。

 脳のシナプスをショート寸前にしながら辿り着いたのは下駄箱の片隅であった。いまぐらいの中途半端な時間帯に部活を切り上げる生徒はいないだろうし、真面目な帰宅部員であれば当然もう帰宅しているはずである。今日のような大雨であればなおのこと下駄箱にひと気はない。

 急に立ち止まった僕の背中に危うく顔面をぶつけそうになった女の子は、セーッフ、と安堵の息をつきながら両手を平らに伸ばした。たどたどしく謝罪の言葉を述べる僕の目を彼女はおでこに濡れた前髪をぺったりと張り付かせたまま丸っこい瞳で真っ直ぐに見詰めた。胸を衝くような純真さに堪えかねて、僕は視線を上に逸らした。本校の創設以来、誰ひとり熱心に見上げたことのない下駄箱の天井を僕はしばらく見上げていた。

 いかなる困難に直面しても闇雲に行動するよりは冷静に思考する方が賢明である。いつか読んだ言葉を頭の中で反芻する。僕は深く息を吸って正面に向き直った。

「ええっと、まず基本的なことを確認しておきたいんだけど……」

 目の前の純真な瞳がまるで次の台詞に壮大な期待をこめているかのように輝いて僕を射貫く。狼狽えるな、鮎川篠生よ。こほん、と咳払いをひとつ吐いてからあらためて気を持ち直す。

「君と僕はこれまで一度も会ったことはない」

「うん」

「けれど君は僕のことを知っている。そうだね?」

「うん、そうだよ」

 半ば自分に言い聞かせるかのような僕の言葉に、あたかも当たり前のことを当たり前だと確認するように彼女は頷いた。

「でも僕は君にこれっぽっちも心当たりがないんだ。これは正直なところで、ほんと申し訳ないんだけれど……」

 気を抜くとしどろもどろになる僕のことを彼女は笑みを崩すことなく見詰めた。下手な気配りはこの際なんの用も成さないと悟った僕は単刀直入に訊いた。

「君はいったいなんなの?」

 そんな僕の不躾な質問に彼女は表情ひとつ変えずに答えた。

「〈絶望〉だよ」

「え?」

 とっさに理解出来ずに聞き返す僕に向かって、彼女は小学生に交通ルールを諭す母親のような落ち着いた口調ではっきりともう一度言った。

「〈絶望〉。わたしは鮎川くんの〈絶望〉」

 高速で回転するプロペラがゆっくり逆回転して見えるという現象がある。あまりにも突飛もない状況に理解が追いつかないと人間の思考も逆にゆっくりと回り始めるらしい。

 よし、質問を変えてみよう。  

「君は僕になんの用事があるのかな? 慌てて僕を探してたみたいだけど」

「用事? 用事かあ……。うーん」

 人差し指を顎にあて、小首を傾げる。絵に描いたような考える仕草を作って自分を僕の〈絶望〉だと宣言した彼女は右へ左へと首を捻った。

 まず疑うべきはこれはなにかの間違いだということである。壮大な冗談か、あるいは彼女の甚だしい勘違いか。しかし、冗談にしては見ず知らずの女の子が全身びしょ濡れになるというには度が過ぎているし、そもそも交友関係の極端に狭い僕をペテンにかける主体も意味も分からない。

 だとしたら勘違いか? 彼女には一見そうした雰囲気もないではないが、しかし、僕にはどうしても彼女が単に思い違いで自分に会いに来ているとは思えなかった。なにしろ図書室ですぐに初対面の僕を見分け、フルネームまで口にしてみせたのだから。

「わたしにもよく分かんないんだよね」

 女の子は顔の位置を戻して放り投げるように言った。

「分かんないって……、なぜ僕に会いに来たのか、その理由が分からないってこと?」

「うん。ただもう鮎川くんのそばに行かなきゃって、そう思っただけ。別に理由なんて無いんだと思うよ」

 なんでもないようにそう言うが、いまものすごい台詞を口にしていることに彼女は気が付いているのだろうか?

 理由なんて無い。ただそばに行かなきゃと思っただけ……。

 軽い目眩を覚え、僕は頭を振った。頭上に出現しかけたモヤモヤは霧散し、雨雲の中へと散っていった。

 第一、僕と彼女とは、彼女じしんがそう言ったとおり、今日が初対面なのだ。彼女の言葉になにがしかの期待をこめる方がおそらくは間違っている。

 では、なぜ……?

 彼女の言う〈絶望〉というフレーズにヒントがあることは確かだろう。

 僕が図書室で味わったのは紛れもない〈絶望〉そのものであった……。

 僕には小説しか無かった。小説に高校生活を捧げ、自らの将来を賭けた。他の生徒のようには選択肢に恵まれていなかった。この街を、それこそ希望の欠片も無いようなこの街を出て行くには。

 僕のとれる手段は小説しかなかったのだ。その唯一の希望が、あまりにも脆く崩れてしまった。崩れるばかりではない。なにか巨大な足の裏のようなものであっという間に硬く踏み固められてしまったんだ……。

 その〈絶望〉が僕になんの用事があるというのか? いや、彼女を責めてはいけない。そうだ、彼女は自分の口ではっきりと言ったではないか。なんの用事も無いのだと。理由も無く、ただ僕の元へやってきたのだと。

 ……で?

 さしあたりこの状況をどうにかしなければならない。びしょ濡れの女の子と二人きりで放課後の下駄箱で向かい合っているというこの困難きわまりない状況を。

 じゃあそういうことで、かなんか言って彼女を残して立ち去るのはあまりにも酷薄である。かといって全身から水を滴らせる彼女を図書室へ連れ戻すのは忍びなく、これ以上ここで二人きりで立ち話を続けるには僕の精神と理性とが持ちこたえられそうにない。いずれにせよ、やがて部活動を終えた生徒たちが下駄箱へ大挙してくるのは確実である。

 なぜか瞳を輝かせて僕を見詰め続ける彼女から有効な解決策を引き出せるとも思えないし、はて、どうしたものか……。

「おや? 鮎川じゃないか。こんな暗いとこでなにやってんだ?」

 野太い声に驚いて振り返ると、そこには体育教師の吉増が仁王立ちになり僕たち二人を睨んでいた。

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