それでも愛しい世界とドーナツ

石田緒

第1章

第1話 その子は雨に濡れて……

 あなたは〈絶望〉がやってくる音ってどういう音だと思いますか?

「ドーン」とか「ズシーン」とか、沈みこむような音?

 それとも「ガーン」みたいな衝撃的な音でしょうか?

 もしかしたら、というか人によってはそういうのもあるかもしれません。

 けれど僕の場合、〈絶望〉はこんな音を立ててやってきたんです。

 

 ペタペタペタペタペタペタペタ……。



 

 その日、朝から降り続く大雨のせいか図書室にはいつにもまして空席が目立っていた。

 放課後といえども日没までにはまだ時間があるはずだった。なのに打ち付ける雨が滝のように流れる窓の向こうは夜みたいに暗かった。空一面には真っ黒な雲が立ちこめていて、そのまま視線を下げればグラウンドには巨大な水たまりがいくつも出来ていた。連休明けの空はそれでも不満足なのか、止まない雨脚が地表をうっすらと煙らせていた。

 廊下からは行き場をなくした野球部員のやけっぱちな掛け声が響いてくる。筋力トレーニングでもしているのだろうけれど、これでは図書館は静寂にというありきたりの文言もあったものではない。おまけにその掛け声を追うように新入部員と思しき吹奏楽部の調子っぱずれのクラリネットが聞こえてくる。まったく、窓の外の荒天といまの僕の気分にはうってつけのBGMだ。

 僕の右手にかろうじて握られたスマホはとっくに消費電力モードに移行しており、そこにはなにものをも映し出されてはいなかった。いや、正確に言えば、それを握る僕のどうしようもない表情が鏡のように映されていた。もはや僕にはそのスマホを取り落とす滑稽な気力さえ残されていなかった。

 ダメだった……。

 選考結果の一覧に僕のペンネームは存在しなかった。何度見ても無かった。高校生活二年間を丸々費やして執筆した小説は第一選考すら通過することが叶わなかったのだ。

 歯牙にもかけられなかった……。

 くわえて僕の心を打ち負かしたのは見事に最優秀賞を獲得した執筆者の年齢だった。15歳。自分よりもふたつも年下に作家デビューの架け橋が渡されたことは決定的だった。僕は絶望した。

 そう。それは〈絶望〉だった。

「しゅうりょーお!」

 なにかの終わりを告げる先輩格の声に続いて、たはー、とか、きっつー、とかいう嘆息とも安堵ともつかない運動部員の声が思いおもいに漏れ出た。パアーラリルリラリラリラ……、とクラリネットの下降音型が律儀に後を追った。

 目を瞑ることは出来るが、両手を頭の横に沿わせなければ耳を塞ぐことは出来ない。僕はせいいっぱい項垂れたまま図書室の向こうの声音と雨音とを思うさま耳の中に招き入れていた。

 どのくらいそうしていただろうか? このまま机と同化して一生を埃臭い本に囲まれて過ごせたらどんなにか安らかだろうと、そんな馬鹿げたことを想像し始めていた僕の耳にこれまでとは違う、なにか別の響きを持った音が飛び込んできた。

 ペタペタペタペタ。

 野球部のランニングにしてはずいぶん軽いな……。思うともなしにそんなことを思った。いまや僕の脳内は重苦しく淀んでいて、新しい情報を考察するのに適してはいなかった。しかし、その足音は確実に僕の元へと近づいていた……。

 やがて図書室の前でペタペタペタという足音は止まり、ガラッと無遠慮にドアが開けられた。あまりの大きな音に僕は俯いたまま背筋をビクッと震わせてしまった。

「あーいたいた。やっと見つけたあ」

 入り口で女の子が声を上げた。図書室で待ち合わせでもしていたのだろうか。いや、見つけたと言っているくらいだから待ち合わせ場所は伝わっていなかったのだろう。ともあれ探し相手が見つかったのは喜ばしいことだ。

「おーい」

 入ってきた。廊下の騒音があるとはいえどうにも図書室には似つかわしくない声量である。僕は少しだけ顔を上げた。見れば確かに一人の女の子である。だが、見たことのない制服を着ている。うちの高校の制服ではない。いや待て。そもそもあれは制服だろうか? 襟元やスカートの裾に無駄にフリフリが付いており、なんていうか、制服のコスプレと言った方が近い気がする。

 しかもよく見れば彼女、びしょ濡れじゃないか! クリクリと縮れた髪からは大粒の水滴を滴らせ、服は全身に張り付き、なぜか素足の足下には早くも水たまりをこしらえている。この大雨の中を傘も差さずに外から歩いてきたというのだろうか。そして、なぜだ? 満面の笑みだぞ!

 あまりの奇矯な姿に思わず起き上がって周囲を見回す。まったく誰だよ、こんな格好までさせて彼女をここへ呼び出したのは?

 しかし、図書室のあちこちに点々と座る生徒たちは誰一人として彼女の方へ視線すら向けていない。全員が顔を伏せ、黙々とおのれの作業に集中している。

 ははーん、なるほど。僕は合点した。君子危うきに近寄らず。もっともこんな図書室にびしょ濡れで入ってきて大きな声を出すような子には誰も関わりたくないよな。全員でシカトを決め込んでいるに違いない。探されているらしい当人もきっと恥ずかしさのあまり顔を上げられないのであろう。それならば僕も右に倣うまでだ。

 と、再び机に俯こうとした瞬間、目の前のイスがガタッと音を立てて引かれた。驚いて上げた顔の前には当たり前だとでもいうようにその姿があった。髪から水を滴らせた女の子は机に両手を着き、ぐいっと僕の方へその顔を近づけた。

「はじめまして、鮎川くん!」

 まん丸な瞳が僕を正面から見据えた。

 えっと……、どういうこと?

 咄嗟に言葉を探すが喉の奥に文字が絡まって出てこない。女の子はにっこりと笑ってこちらを見詰めている。喉の奥で絡まった文字を丁寧に解いてやって、ようやく僕は通り一遍の台詞を声に出す。

「ひ、人違いじゃあないですか?」

「ううん。人違いじゃないよ、鮎川くん!」

 鮎川くんと、そう確かに彼女は僕の名前を口にした。じゃあ人違いではないのだろう。では、だとしたら……。

「あのう、以前どこかでお会いしましたっけ?」

「会ったことないよ。今日が初めて。だからはじめまして!」

「ああ、ですよねー。……いや、ですよねじゃなくて!」

 僕らしからぬナチュラルなノリツッコミに思わずイスを蹴って立ち上がってしまった。しまった、と周囲の気配を背中で探りながら何食わぬ顔で倒れたイスを起こす。

「ちょっと表で話そうか」

 僕は小声を作った。

「ん?」

 彼女はにっこりと笑ったまま小首を傾げた。状況をよく分かっていない様子だ。いや、状況がよく分かっていないのはこっちの方だ。僕は伸ばしかけた手をいったん押しとどめたものの、思い切って女の子の手を引き、開けっぱなしのドアから彼女を廊下へと連れ出した。雨に濡れたその手は不思議な暖かさを持っていた。

 

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