第50話 絶望の幕を破り、少年はその先へ

「ルカ君」


 導くような囁き声だった。


 それは聖杖から響いたものではなかった。オリビアさん自身の肉声だ。

 彼女は神殿の外に出ていた。丘の上、崖のような突端でドレスのスカートを揺らしている。


 僕は愕然として、自分の思考が止まったのを感じた。

 丘の上には今も軍勢からの魔術攻撃が続いている。オリビアさんのすぐ後ろには炎の闇が飛び交い、激しい爆発が連続していた。

 危険どころの騒ぎじゃない。今この瞬間にも爆発に巻き込まれてしまいかねない。


 さらには神殿の外という場所。

 彼女には今も傲慢の悪魔ルキフェルが取り憑いている。僕がそばにいれば神聖術の鎖が効くので問題はないし、そうじゃなくても神殿の敷地内であれば結界が効くのでやはり問題はない。


 でも今立っているのは、丘の突端。神殿の結界がちょうど作用しなくなる境界線だった。

 あんなところにいれば、ルキフェルが目覚めかねない。


 自分がどんなに危険なことをしているか、オリビアさんも分かっているはずだ。

 なのに王女様は涼しい顔で微笑んでみせた。

 風に乗って声が届く。


「ルカ君。今、キミが経験したのが世界の本当の姿よ。箱庭育ちのキミが知らなかった、世界の真実がそこにあるの」


 乾いた風がブロンドの髪をなびかせる。


「世界は、人間は……吐き気がするほど醜い。同時に目を見張るほどに美しい。許さなくていい。許すようなものじゃない。清濁併せ呑みなさい」


 髪を押さえ、彼女は柔らかく目を細めた。


「その果てにキミは世界との向き合い方を見つけられるはずだよ」


 その言葉と同時に、オリビアさんの全身から炎のような闇が迸った。

 闇は彼女とそっくりの形を成す。僕は言葉もなく目を見開いた。



 傲慢の悪魔ルキフェルだ。



「『ふはははははっ! なんと愚かな女だ、我が宿主オリビアよ! よもや自分から結界の外に出ようとはな!』」


 ルキフェルの体には神聖術の鎖が絡みついていた。

 でも僕という術者がそばにいないことで効力が弱まり、鎖は次々に引き千切られていく。


「『これで我は自由だ! もはや阻むものは何もない! そしてどうだ、眼下に広がるこの光景は! 悪魔、悪魔、悪魔……っ! 気配からすると、アモンの息が掛かった者たちだな? 素晴らしいぞ、この者共を我が率いれば、まさしく一騎当千! 伝承の体現者から逃げ伸びることも夢ではない!』」


 ごく自然な仕草で振り返り、オリビアさんは背後の悪魔へ声を掛ける。


「そ。良かったね、傲慢の悪魔……ルキフェルだっけ?」

「『そうだ、我こそは七大悪魔が一角、傲慢の悪魔ルキフェル! オリビアよ、褒めてやろう。何を思ってかは知らぬが、よくぞ我を解き放った。特別にお前の意思を残したままで使い魔にしてやってもよいぞ?』」

「それはどうも。でもね? 喜んでるところ悪いんだけど……私はお前を利用するために開放したの」

「『なんだと?』」

「ねえ、ルキフェル。知ってる?」

 まったく物怖じせず、むしろ穏やかに彼女は言った。



「人間ってね、悪魔より怖いのよ?」



 次の瞬間、オリビアさんは僕やルキフェルがまったく予想しなかった行動に出た。

 まるで散歩に赴くように足を踏み出し――崖から飛び降りたのだ。


 ブロンドが宙に舞い、ドレスの身が真っ逆さまに落下する。

 あの七大悪魔の一角でさえ、一瞬言葉を失った。

 僕は呆然としている。

 なんで、どうして? オリビアさんの行動の意味が分からない。

 目の前のことが現実だと思えない。


 ルキフェルはオリビアさんを追い、「『自死か!? その前に魂を寄越せ……っ!』」とすぐさま崖から飛び降りた。

 崖下では帝国の軍勢が王女の落下に気づいていた。反応は先ほどの髭面たちと一緒だった。兵士たちは欲情に駆られ、我先にと天へ手を伸ばす。


 僕はまだ呆然としている。こんなこと現実のはずがない。

 オリビアさんは落ちていく。

 金色の髪と長いスカートが揺れている。

 目が合った。


「さあ、ルカ君」


 真っ逆さに落ちながら、彼女は両手を伸ばした。

 まるで庇護を求めるように。



「――私を守って?」



 その一言で我に返った。

 オリビアさんを守る――今、それが出来るのは僕だけだ。

 聖女を守る――それが僕の使命だったはずだ。


 神官としての大義を思い出し、地面に落とした聖杖を拾う。

 そうして駆け出そうとしたところで。


「ぎぃ……っ!?」

「えっ!?」


 髭面の呻き声が響き、僕は足を取られた。聖杖の刃が無数の兵士に突き刺さり、引っ掛かってしまっていた。

 オリビアさんのもとに駆けつけられない。自らの非道な行いによって、僕は足を阻まれた。

 それに今の聖杖の形態ではルキフェルを祓うことすらできない。状況は詰んでいる。


「なんで……っ!?」


 泣きそうになりながら引っ張る。

 でも大樹のように刃を伸ばした聖杖は動かない。


「僕はっ、正しいことをしてきたはずなのに……っ! 今も正しいことをしようとしてるはずなのに……っ、なんで上手くいかないんだよ!?」


 視線の先、落下するオリビアさんへ、ついにルキフェルが追いついていた。

 闇のような手が何倍にも広がり、空中でオリビアさんを捕獲する。それは蝶を喰らう食虫植物を連想させた。


 同時に軍勢の兵士たちも悪魔の力で宙へ浮かび、躍り掛ろうとしていた。

 悪魔を宿したままの瞳は髭面たちよりもさらに正気を失っていて、鎧を脱ぎ捨て、大勢でオリビアさんを汚そうとしている。


 僕は「やめろ! やめてくれ……っ」と叫んだが、現実は残酷なまでに進行する。

 悪魔は彼女の命を奪おうとし、男たちは彼女の尊厳を汚そうとしている。



 これが世界。



 はっきりと認識し、砕けんばかりに奥歯を噛み締めた。

 どうして、とはもう思わない。

 胸のなかに生まれたのは燃えるような怒り。

 大義とはあまりにかけ離れた、純粋なエゴ。


 オリビアさんが奪われる。

 それだけは絶対に許容できない。してたまるか。


 もう世界なんていらない。大義もいらない。

 ただ――彼女がほしい!

 走馬灯のように思い出が駆け巡り、いつか言われた言葉を思い出す。


 ――たとえばヒロインが敵に囲まれるじゃない? その大ピンチのところにルカ君が駆けつけてきて、ビシッと言うのよ。


 言うことを聞かない聖杖に拳を叩きつけ、僕は叫ぶ

 いつか彼女が望んだ、その言葉を。


 もう世界に希望なんてもたない。役に立たない大義も捨てる。

 神官としてじゃなく、ひとりの男として。

 僕が要求することはただ一つ。



の女に手を出すな――ッ!」



 次の瞬間、膨大な星の光が渦を巻き、天を貫いた。

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