第49話 僕は善か悪か

 僕が弄ばれそうになった神殿の階段下。

 そこで髭面の隊長は――身を挺して仲間を庇っていた。聖杖の刃から自分の体を盾にするようにして、副官の優男を守っていた。

 僕は限界まで目を見開いて絶叫する。


「なんで悪人のお前がそんな善人みたいなことをしてるんだ――ッ!?」


 すべての刃は聖杖の宝石部分から伸びている。僕の叫びに呼応し、刃は生き物のように蠢いた。

 髭面の腹には刃が突き刺さっており、蠢きによってその傷が抉られる。


「あ、ぐああああっ!?」


 髭面の悲鳴が響いても、僕の混乱は止まらない。


「おかしいだろ!? お前はオリビアさんを襲うような悪人だろ!? 魂の汚れた、醜さの権化のはずだ! なのに、なんで、どうして命懸けで仲間を庇ったりしてるんだ!?」

「お、俺には……」


 刃の蠢きが僕の感情に呼応していることは誰の目にも明らかだった。

 激痛から少しでも逃れようとするように髭面は口を開く。


「俺には……この副官と同じ歳の息子がいる。故郷の村に残して、もう何年も会ってねえが……」


 額に脂汗を滲ませて髭面は言う。

 背後の優男に大きな背中を見せながら。


「人の親として、息子と似た奴を見捨てることはできねえんだ……っ」

「……っ」


 唖然とした。でもすぐに怒りと戸惑いが襲ってくる。

 刃はさらに蠢き、僕は地団太を踏む。


「な、なんだよ、それは……っ。自分の子供と似てるから、命も顧みずに庇うっていうのか!? そんなの……まるっきり善人の行いじゃないか! 変だよ! おかしいよ!」


 僕は髪が抜けてしまそうなほど頭をかきむしった。


「だったらオリビアさんを傷つけるなよ! 自分に大切な人がいるんなら、他人の大切な人も傷つけるなよ! 大人なのになんでそんなことも分からないんだ!?」

「戦場では……っ!」


 刃の蠢きに顔を顰め、髭面は悲鳴のように叫んだ。


「戦場では度胸のねえ奴から死んでいく! 王族の女を抱かせて、こいつに度胸をつけさせてやりたかったんだ!」

「詭弁だ! 僕は身を以って知ってる! お前はただ自分の欲望を満たそうとしただけだろ!?」

「俺だって王族は犯してえよ! 当たり前だろうが! でもこいつを守りたかったのも本当だ。嘘じゃない……っ!」

「ふざけるな! 守るなんて言葉、気安く……」


 言うな、と言いかけたのに、喉から出なかった。

 なぜなら髭面は今この瞬間、その言葉を体現している。腹から血を滴らせながら、優男を守っている。


 僕は言葉を発することができず、また頭をかきむしった。

 すると髭面の背後から今度は優男が飛び出してきた。

 蒼白い顔で歯をカチカチ鳴らして怯えながら、優男は土下座する。


「頼む! 殺すなら……隊長じゃなく、僕を殺してくれ!」

「な……っ!?」


 絶句した。もうワケが分からない。展開に頭がついていかない。

 優男はなけなしの勇気を振り絞った様子でさらに言う。


「隊長は酔った時、いつも息子さんの話をするんだ……っ。酔いが醒めるとコロッと忘れちゃうくせにいつも『会いてえな、会いてえな』って泣きそうな顔でさ。……ここで隊長を死なせてしまったら、僕が息子さんに会わせる顔がない。だから頼むよ。殺すなら隊長じゃなく、どうか僕を殺してくれ……っ」

「待てよ!? なんで僕がそいつを殺すなんて話になってるんだ……っ!?」


 心の底から叫び、でもすぐに目の前の光景に気づき、はっとした。

 手にした聖杖からは刃が止まらず、多くの兵士を斬り裂いている。

 その一本は仲間を守ろうとした髭面の腹に突き刺さり、守られた優男が身代わりになろうと懇願している。


「なんだよ、これ……。これじゃまるで僕の方が悪者みたいじゃないか……っ!」


 勧善懲悪。

 善きものは広まり、悪しきものは懲らしめられる。


 その原則を僕はずっと信じてきた。

 でも混沌としたこの場には勧善懲悪のルールなど通用しない。

 善も悪も混ざり合い、両者を隔てる境界線がどこにもない。

 もう限界だった。


「あ、あ、あ……」


 聖杖が手からこぼれ落ちる。


「うわあああああああああああああッ!」


 壊れた。

 ルカ・グランドールの精神はついに致命的に崩壊した。

 だが。


「ルカ君」


 彼女は導く。

 現実に押し潰された少年を、その先へ。


 声は聖杖から響いたものではなかった。彼女自身の肉声だ。

 オリビアさんは神殿の外に出ていた。

 丘の上、崖のような突端でドレスのスカートを揺らしている。


 僕は呆気に取られた。

 神殿の外、つまりは結界の外側。そこは――傲慢の悪魔ルキフェルが目覚めてしまう場所だった。

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