第45話 約5分前―無垢とは無知の同義である―

 僕が変化したオリビアさんの説得で、先遣隊の隊長をあと一歩で説得できるところだった。

 でもその間際、隊長に取り憑いている悪魔が形を取り、口を挟んできた。


「『騙されるな。命令に背けば、貴様らは皆殺しにされるぞ?』」

「悪魔……っ!」


 とっさに僕は背中に手をまわしかけた。

 でもそこに聖杖はない。オリビアさんの振りをしているからこの場で祓ってしまうこともできない。

 悪魔は続けて隊長に囁く。


「『自らがとうに魂を売り渡した身だということを忘れるな。もしも貴様らが勇者にとって用済みになれば、我々は貴様らの魂を喰らい尽くすことになるだろう』」

「な、なんだと……っ!?」

「『無論、あくまで用済みになればの話だ。帝国に属する限り、我々悪魔は貴様らに手を出すことはできん。そのように魔法使いから呪を掛けられているからな』」

「じゃ、じゃあ、どうすりゃいいんだよ!? あの王女は一族郎党、皆殺しにするって言ってるんだぞ……っ」

「『なあに、簡単なことさ。貴様の思う通り・・・・・・・にすればいい』」


 闇色の腕が隊長の肩を抱き、耳元へ囁きかける。


「『我には貴様の心が読める。だから分かる。貴様がすでに解決策を頭の隅で思いついていることをな。それでいいんだ。それがいいんだ。素晴らしいぞ。さすがは隊長だ。貴様の決断によって、部下たちは皆、助かるのだ』」

「くっ、だがしかし……っ」

「『迷うな。貴様は正しい』」


 もう見ていられない。

 僕は声を張り上げる。


「駄目だ! 悪魔の甘言に惑わされちゃいけない……っ!」


 皮肉にもその呼びかけが引き金になってしまった。

 隊長は鞘に納めかけていた剣を勢いよく抜き放つ。


「甘言を言ってたのはそっちじゃねえか! 危うく俺たちは悪魔に殺されるところだったんぞ……っ!?」


 とっさには言い返せなかった。

 シドの仲間に高位の魔法使いがいるのなら、確かに悪魔へ誓約を懸けることもできるはずだ。けれど。


「落ち着いて! いくら命令に逆らったからって、悪魔に魂を喰わせるなんてするはずない。よく考えれば分かるはずだ。シドとあなたたちは仲間だろ? 人間が人間にそんな酷いことをするはずない!」

「はあ!?」


 隊長が浮かべたのは、僕にとってあまりに予想外な表情だった。

 そこには強い怒りと嫌悪が滲んでいる。


「おい、王女様よ……あんた、どんだけ箱庭育ちなんだ? あんたの目の前にいるのは兵士だぞ? どいつこいつも無理やり村から連れ出された雑兵だがよ。それでも西のルドワールには睨みを利かせ、東のカーランでは戦場を生き抜いてきた……そんな兵士たちに人間が人間に酷いことはしない、とそう言ったのか?」


 闇が揺らめいた。

 悪魔は裂けるような笑みを浮かべ、隊長の輪郭と重なっていく。

 そして隊長は副官に言った。


「……決めたぞ。この女は殺す」

「た、隊長っ。でも……っ」

「悪魔の力を使えば、死体は残らねえ。証拠が無けりゃ、王族がどうなったかなんて誰にも分からねえだろうが」

「それは……そうかもしれませんが」


 隊長の闇がちりちりと火花を上げるように瞬く。

 すると兵士たちの闇も応えるように勢いを増した。まるで感情が伝播していくように。


「覚悟を決めろ! ここであの女をやらなきゃ、俺たちが悪魔に喰われちまう! それでもいいのか!?」

「よ、よくない……です」


 兵士たちはおずおずと剣を構え直す。そこに隊長がさらに言葉を重ねた。

 妙に低い声で、はっきりと。

 ある種の感情を乗せて。


「どうせ跡形もなく殺すんだ。せっかくだからよ……」


 異様なギラつきを見せる目つき。

 それは獰猛な肉食獣を連想させた。


「王女の味ってやつを確かめてみたくねえか?」


 僕は一瞬、意味が分からなかった。

 今、なんて? 味が……なに?


 美しい王女様の姿で目を瞬く。

 でも僕以外の全員は、隊長の言葉を正確に理解しているようだった。

 空気が変わった。それも恐ろしく不穏な方向に。


「『ルカ君』」


 イヤリングからの声はどこか無感情だった。

 まるで乾いた風のように、さらりと耳の横を流れていく。


「『来るよ』」


 返事をする暇はなかった。

 なぜなら兵士たちがまるで人が変わったように襲い掛かってきたから。

 でもその行動は理に適っていない。

 剣を投げ出す人もいれば、体を守るはずのアームガードやフロントガードを外す人までいる。


「な、なんで突然……っ!? 落ち着いて! 僕がシドを説得する! 悪魔に手出しなんてさせないから……っ」


 もうオリビアさんの振りをする余裕もなかった。

 殺到する兵士たちはみんな、目が血走っている。それに異様に息が荒い。

 生理的な恐怖を感じて、僕は後退さる。一方で本物のオリビアさんの声は落ち着いていた。


「『無理だよ。彼らの耳にもうキミの声は届かない。何を言っても、興奮を助長させる刺激的なスパイスにしか感じないだろうから』」

「ど、どうしてですか!? 今の今までちゃんと話が出来てたのに……っ」

「『彼らはね、キミの体を欲してるの』」

「体? って、……えっ!?」


 眉を寄せると同時、兵士の一人の腕がこちらに届いた。

 胸元を掴み、ドレスが力任せに引き裂かれる。

 腕や肩を狙ったものではなかった。明確にドレスを破こうとした動きだった。


「あ……っ」


 豊かな胸が弾むように露出した。

 下着も千切られてしまい、隠すものは何もない。

 柔らかな弾力を惜しげもなく晒し、双丘は空中で大きく跳ね、その存在感を白日の下に現した。


 兵士たちが耳をつんざくような咆哮を上げた。

 恐ろしいほどの迫力で僕を凝視し、無数の腕が伸びてくる。

 もはや人ではないかのような形相だった。

 しかし、だからこそ僕ははっと我に返った。


「そうか! みんな、悪魔に操られてるんだ……っ!」


 兵士たちが凶暴化する直前、悪魔の闇が感情を伝えるように蠢いていた。

 あの時、正気を失わせる術か何かを使っていたに違いない。


「虫ケラ以下の汚い悪魔共め! 僕は惑わされないぞ!」


 素早く背後に跳躍し、イヤリングに触れると、星の光がきらめいて聖杖が元の形に戻った。

 普段はやや長すぎる聖杖もオリビアさんの身長だと程よく手に収まった。

 露出してしまった胸を左手で隠し、右手で聖杖を兵士たちへ向ける。


「低級悪魔程度なら第一形態で十分だ! 神聖起術、詠唱! 二巻第七十七節『星よ、輝け。暗闇を切り拓き、すべての命に光と真なる安息を』」


 聖杖の宝石部分が眩く輝き、一瞬で辺りを包み込んだ。

 途端、兵士たちが発している闇が溶けるように消えていく。


「『これは神聖術の光……っ!? 貴様、まさか聖女ではなく神官か……っ!?』」


 声を上げたのは隊長と同化していた悪魔。


「僕の正体にも気づかないなんて、お前たち悪魔の迂闊さには呆れるよ。あまり人間を舐めるな」

「『アモンの目を盗んで聖女を喰らえると逸ったのが早計だったか。おのれ……っ!』」


 怨嗟の声を上げ、悪魔は光のなかで消失した。

 軍勢の規模が大きいから先遣隊のすべてを祓えたわけじゃない。

 でもとりあえず目前に迫った兵士たちは正気に戻るはずだ。


「皆さん、もう大丈夫です! 落ち着いて、僕の話を――えっ!?」


 呼びかけている途中で乱暴に髪を引っ張られた。兵士たちの悪魔は祓った。もうまとわりついていた闇も消えている。


 なのに――彼らは止まらなかった。

 たくさんの手がオリビアさんの姿の僕へ迫ってくる。


 それはさながら悪夢のような光景だった。

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