第44話 約10分前―かくして絶望の幕は開きゆく―

 青々とした草原に重い甲冑の音が響いている。

 帝国の軍勢は皆、シドと同じく悪魔を身に宿し、体からは炎のような闇が溢れていた。

 闇は掲げた剣によって指向性を与えられ、丘の上の神殿へ絶え間なく放たれている。

 空を黒く染め上げるような光景だったけど、そこに今、別の色が加わった。


 風になびく、金色。

 ブロンドを翻し、オリビアさんに変化した僕は神殿の裏手から飛び出した。

 幸い、草原へ続く階段は、魔術攻撃の射線からはわずかにずれている。

 神殿から無事出ることさえできれば、直撃する危険はない。あちこちから上がっている爆炎や煙も身を隠すのに役立った。


「みんな、もう少しだけ待ってて下さい。僕が必ずシドを説得してきますから……っ」


 呟く声もオリビアさんのものになっている。

 スカートの裾を振り乱し、僕は階段を駆け下りた。

 聖杖は神聖術で形状を変化させ、イヤリングとして身に着けている。

 そこから本物のオリビアさんの声が響いた。


「『ルカ君、外の様子はどう? 大丈夫?』」

「はい! 今、階段を下りてます。このまま下まで辿り着けそうです!」


 聖杖と水晶球を術で繋ぎ、こっちの状況がオリビアさんに伝わるようにしておいた。

 軍勢の前で王女様らしく振る舞うためだ。


 空を見上げれば、悪魔の炎が我が物顔で飛び交っている。この世とは思えない、おぞましい光景だった。

 階段を下りきった場所には、すでに兵士が押し寄せていた。あと少し遅ければ、彼らは怒涛の勢いで神殿に侵入していたことだろう。

 危なかった。なんとかギリギリで間に合った。


「オリビアさん、帝国と接触します」

「『口上は教えた通りにね。どうか気をつけて』」

「はいっ」


 小声で会話し、残り十段ほどを残して、僕は跳躍した。

 そしてオリビアさんのような凛とした声で空気を震わせる。


「待ちなさい! ザビニア帝国の者たちよ!」


 着地すると、スカートが花びらのようにふわりと舞った。

 剣を携えた者たちは突然のことに驚いた様子で足を止める。


 ……ロッテさんの言ってた通りだ。この人たちは正規の騎士じゃない。


 剣よりも農具が似合いそうな男の人たちばかりだった。

 中年から青年までいて、年齢はバラバラ。なかには鎧の付け方がおかしく、ブレスト・プレートが逆さになっている人までいる。

 雰囲気からすると、たぶん徴兵された元・村人たちだろう。


 でも全員、シドのように頬に刻印があり、炎のような闇をまとっていた。悪魔憑きだ。

 僕は勢いよく立ち上がり、機先を制して朗々と告げる。


「私はルドワール王国の第一王位継承者オリビア・レイズ・ルドワール! この草原は我が国の先々代ルドワール王と、お前たちの先代ザビニア皇帝が約定によって不戦と定めた場所! 十余年に渡って守られた不可侵の土地に軍靴を鳴らすとは……答えよ、一体どういう了見か!」


 オリビアさんに教えてもらった口上だ。

 相手は悪魔憑き。もしも彼らが悪魔に乗っ取られているような状態だとすれば、なんの反応も示さないだろう。その時は危険を覚悟して神聖術で突っ切るしかない。

 でも幸運なことに反応はあった。


「ル、ルドワール王国の王女、だと……!?」


 呟いたのは、先頭にいた隊長らしき男の人。

 兜は被っているけど、フェイスガードは下ろしていない。隊長は思いきり動揺を浮かべる。


「嘘だろ、なんでこんな大物がこんなところにいるんだよ? 俺は神殿を攻め落とせとしか聞いてねえぞ……っ!?」


 隊長の隣りには蒼白い顔の副官らしき男の人がいた。

 血色の悪い顔をさらに青くして、副官は言う。


「た、隊長。もしかしてアレじゃないですか? 神殿が布告してた聖女ってやつじゃ……っ」

「聖女ぉ? あんなもん、いつもの神殿の戯言じゃ――」

「そうよ」

「……っ!?」


 男たちの会話に僕は言葉を滑り込ませた。

 イヤリングからの指示通りにセリフを紡ぐ。


「私は王宮付きの修道騎士に見出され、聖女としてこの神殿に招かれたの。よく考えなさい、帝国の兵士たちよ。お前たちは今、隣国の王族が滞在する場所へ踏み込もうとしている。剣を抜き放った、その野蛮な姿でね。……分かる?」


 声のトーンを一段低くする。


「あと一歩でも私に近づいてみなさい。その瞬間、これは国同士の問題になる。ここにいる者たち全員、ただの縛り首じゃ済まないわよ? 一族郎党、拷問の上に皆殺しだわ」


 ……す、すごい。オリビアさん、こんな怖いことをスラスラと……っ。

 内心圧倒されつつ、僕はオリビアさんの言葉を再現し、兵士たちを見据える。

 彼らの動揺はざわめきとなって草原に響いた。


「隊長っ、帝国とルドワールの親交パレードで見たことがあります。あれ、本物の王女です。まずいですよ。王族に手を出すのはさすがに僕は嫌です……っ」


 副官は完全に腰が引けていた。彼の周囲の兵士たちも同意見らしく、皆、戸惑いを浮かべている。

 隊長はそれでも「ば、馬鹿野郎」と声を張り上げる。


「俺たちの上に誰がいると思ってんだ? 勇者シドだぞ!? 勇者の命令だって言えば、俺たちの責任になるわけはねえ!」

「堕ちた勇者じゃないですか! そもそもシドが魔王に負けたから僕たちは悪魔なんてものを使わなきゃならなくなったんだ。あんな奴の威光なんて国同士の問題になったら絶対役に立ちませんよ! 隊長だってあんなクソ野郎、魔王に殺されればよかったんだって言ってたじゃないですか……っ」

「そ、それは確かに言ったけどよ。でも帝国の命令は絶対だ。もし破ったらどんな罰を受けるか……っ」

「お前たちが成すべきことは一つよ」


 僕は兵士たちの動揺を見据えて口を挟み、手を広げた。


「私を勇者シドのところへ連れていきなさい。ルドワール王国の王族として正式に抗議します。でもお前たちの役目はそれでおしまい。私が勇者シドと会えば、以降は勇者とルドワール王国の問題。末端のお前たちに問題の矛先が向くことはない。オリビア・レイズ・ルドワールの名に懸けてそれは保証してあげる」


 わずかに、だが確実に、ほっと安堵するような空気が流れた。

 空には後方の軍勢からの魔術攻撃が飛び交っているけど、最前線のこの場所では目に見えて戦場の気配が薄れつつあった。

 副官が隊長に言う。


「連れていきましょう。それで僕らの命が助かるならいいじゃないですか……っ」

「う、ううむ……っ」


 隊長はひどく葛藤していた。

 でも副官や他の兵士たちの思いを汲んだらしく、握っていた剣の切っ先が下がっていく。


「本当に俺らが罰せられることはないのか?」

「ないわ。今すぐその剣を鞘に納めるのならね」

「…………分かった」


 ついに隊長は頷いた。だがその剣を鞘に納めようとした、間際。

 まとっていた闇が揺らめき、人のような形を成した。口の形が現れ、囁く。


「『騙されるな。命令に背けば、貴様らは皆殺しにされるぞ?』」


 それは隊長に取り憑いている悪魔だった。


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