第34話 悪魔憑きの騎士団(オリビア視点)
魔術符がテラスの空中へひとりでに浮かんでいく。
草原からは侵攻する軍勢の音が響き、ネオンが慌てふためいている。
セシルは腕を組んで静かに佇み、魔術符や草原の様子を冷静に観察しているようだ。
新しい聖女のロッテは呑気なもので、実力者の余裕もあるのだろうが、かなりの天然らしく、浮かんだ魔術符を「ほえ~」と珍しそうに見上げている。
大神官はその魔術符をかつてないほど厳しい目で見つめていた。他の神官たちも同様に険しい顔をしていて、修道騎士たちは近づいてくる軍勢と魔術符を交互に警戒している。
そのなかで私は――少年の白い背中を見つめていた。
ルカ・グランドール。
今、彼の小さな肩にとても大きな責任が圧し掛かろうとしていた。
状況が錯綜していて、私には詳しいことは分からない。
でも養護院から第一王位継承者に駆け上がった経験が告げていた。
風が乾いている。
こういう風が吹くのは、人生の旗色が変わる日だ。
きっとルカ君は今日、大きな決断を迫られる。
そんな予感がしていた。
ひょっとするとこれがネオンの言っていた『聖女の勘』なのかもしれない。
「ちょいちょいちょい! 王女様、なにぼーっとしてんのさ!? 騎士団がこっちに向かってきてるんだよ!? それに今の聞いてた? なんかあの札から聞こえてくる声、聖女がどうとか言ってたよね!? なんかヤバいんじゃない、この状況……っ」
「え? ああ、そうね……」
腕にネオンが縋りついてきて、私は我に返った。
ネオンは城下町の踊り子だ。ゴロツキのケンカ程度には慣れていても、さすがに騎士団が出てくるような状況には焦ってしまうのだろう。
逆に私は兄弟の従属騎士に斬り掛られたり、姉妹の雇った盗賊団に夜襲されたり、取り憑いた悪魔に首を刎ねられそうになったことがあるので、まだ落ち着いていられた。
ネオンの言う、魔術符からの声。
ルカ君とそう変わらない少年のように聞こえた。
名前は……シド・ソーディンといっていただろうか。その名を聞いた時、一瞬、ルカ君の背中が震えたように見えたけど、あれは……気のせいだろうか。
そのルカ君は魔術符を見据えて、一歩、前に踏み出した。その手に聖杖を握り締めて。
「僕が……伝承の神官だ。話があるのなら聞く」
「『へえ……お前がそうか。想像通り、いや想像以上に甘ったるい顔してんのな。砂糖たっぷりのミルクが好きそうだ。合ってるかい?』」
揶揄するような言葉と共に、魔術符が燃え上がった。
黒い炎を辺りに散らし、闇の鏡のようなものを形作る。そこに声の主の姿が映っていた。
「『もう一度、改めて名乗っておくか。俺はシド。帝国最強の
声の主――シドはやはり少年だった。
ルカ君よりは多少年上という程度で、顔立ちはあどけない。
黒髪にややツリ目。ロッテのような軽鎧を装備しているけど、各種のプレートは幾多の戦場を駆け抜けたかのように傷だらけだった。
そして輪郭のぼやけた炎のような刻印が頬に浮かんでいる。
私には見覚えがある。シドの刻印はあの傲慢の悪魔の体とそっくりだった。
「なぜ、悪魔を兵器なんかに……っ。一体、帝国は何を考えているんだ!?」
ルカ君は敬語を使っていない。
その口調はほとんど詰問のようだった。しかしシドは取り合わなかった。軽やかに肩を竦める。
「『そんな話は今してねえよ。せっかくこうして出逢ったんだ。まずは今日の天気の話でもしてゆっくり親交を深めようぜ』」
「天気のことなんてどうでもいい! 悪魔は本当に危険なんだ。人間が軽々しく武器代わりに出来るわけがない!」
「『軽々しくはねえよ』」
突如、シドの声に異様な敵意がこもった。
同時に北東の軍勢が鬨の声を上げる。皆、驚いて草原の方を向き、直後に絶句した。
軍勢の中央に何か
ネオンが「な、何あれ……っ!?」と気味悪そうに呟き、ロッテが「へえ……面白いことするね」と表情を変えた。
それは家屋のような大きさで、鎧の如き厚い装甲が据え付けられている。
何十人という騎士や兵士が縄で引き、装甲付きの台座に乗っているのは、ドラゴンの死骸だった。
今にも朽ちそうな体を悪魔の炎が炙っている。魔術によって無理やり原型を留めているらしい。
左右の翼はすでに折れており、眼球もなく、黒い眼窩のなかには悪魔の炎が揺らめいていた。長い首には無数のボルトが差し込まれ、まるで砲台のように――この神殿の方を向いている。
「『
ドラゴンの口腔に黒い太陽のような光が生まれ、次の瞬間、神殿に向かって放たれた。
あまりの光の強さに一瞬、草原の景色がすべて黒く染まったほどだ。一条の火柱が空を真っ二つに引き裂き、衝撃波が大気を震わせ、黒い太陽が向かってくる。
「ひぃ!? し、し、死……っ!?」
私の腕に縋りついたネオンが悲鳴を上げる。
視界のすべてが獰猛な黒に覆われ、そして――。
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