第19話 王女様の初めての夜
悪魔の首を神聖術の鎖で絡め取り、ルカ君は静かに告げた。
「傲慢の悪魔ルキフェル、何か言い残すことはある? ま、呪いの類を吐いたって僕には効かないけど」
「『……ルカ・グランドール。小賢しいガキめ。次はこうはいかぬぞ……っ』」
「次なんてあると思ってるの?」
「『あるさ』」
煤だらけの顔で悪魔は嗤った。
文字通り、まるで呪いのように。
「『我は気づいたぞ。貴様には重大な欠点がある。その欠点がある限り、我ら悪魔が祓われることはない。覚えていろ。次に這いつくばるのは貴様の方だ……』」
ずるり、と悪魔の形がいきなり崩れた。
そしてあろうことか――私の影と重なり、一体となってしまった。
「え、何これ……っ」
慌てて何度も足をばたつかせる。
でも影は影のまま、もうなんの変化もない。
聖杖を槍からいつもの状態に戻し、ルカ君が小走りで駆け寄ってくる。
「どうやらルキフェルはオリビアさんの影の一部を使って顕在化してたみたいですね。僕に力を削られて顕在化を維持できなくなって、元の影に戻ったんです」
色んな意味で大暴れした後なのに、ルカ君は息一つ切らしてなかった。
「影に戻ったって……じゃあ、祓えたわけじゃないの?」
「今回は逃げられちゃいました。でも神聖術の鎖をつけておいたんで、もう勝手はさせません。僕がそばにいるか、オリビアさんが聖シルト大神殿の敷地内にいる限り、ルキフェルは二度と外には出てこられないです」
「そっか」
「はい、安心して下さい」
「ん……」
自信に満ちた言葉を掛けられ、少し気後れしてしまった。
恐ろしい悪魔をあれだけ圧倒してる姿を見た後だ。
その言葉を疑う余地なんてない。ルカ君が大丈夫だと言うのなら、もう大丈夫なのだろう。
それより……どうにも落ち着かない。
いつもはこっちがからかっているのに、今はルカ君にとても頼もしさを感じる。
その立ち位置がどうにも座りが悪いのだ。
「あのね、ルカ君……」
「あ、結界が解けますよ。悪魔は外への影響なんて気にしないだろうし、結界内の破壊が影響されちゃうかなぁ」
ルカ君がぼやくように言うと、ほぼ同時にパリンッとガラスの割れるような音が響き、周囲の景色が砕け散った。
現れたのは元のグランドール小神殿の景色。
造りは変わらないけど、薄暗かったランタンが突然、明るくなった。
そして空気がひどく清浄に感じる。肺に優しいというか、悪魔の結界内とは別物のように空気が美味しかった。
ただ床のタイルや柱はルカ君の言った通り、破壊されている。
「結界を解除すると、内部で起こったことが現実に上書きされちゃうんです。高位の悪魔がよく使う手で、たとえば結界内で火事を起こした後に上書きして、一気に多くの人を巻き込んだりするんです。本当に迷惑な話ですが……でもこのくらいの修繕だったら僕とおじいちゃんたちの神聖術ですぐに――あっ」
説明の途中でルカ君の顔が突然、赤くなった。
どうしたんだろうと思い、すぐに気づく。
巻いていたタオルが取れかかっていた。
奇跡的にまだかろうじて体を隠しているけど、あちこち破けていて、胸などほとんどこぼれてしまっている。
「きゃ……!?」
「ご、ごめんなさい!」
「ルカ君、あっち向いて! 見ちゃダメ!」
私は真っ赤になってしゃがみ込み、体を隠す。
直後に、なんで……と自分の行動に戸惑った。
確かに見られるのは恥ずかしい。でもルカ君は子供だ。今までの私ならこんなに強くは言わなかった。もっと大人の対応をしていたはずだ。
私、どうして……と、自問自答していると、ルカ君が「あの、これを……」と言い、襟のボタンを外した。
どうやらローブの一部がマントのように外れるらしい。
私を覆うようにルカ君はローブをはためかせる。
「あ……」
ランタンの灯かりのなか、汚れない白が宙を踊った。
ふわり、と肩にローブが掛けられる。
私のルカ君に対しるイメージは、真っ白な雪原。
肩のローブの肌触りを感じていると、まるで心の中の雪を分けてもらったような気持ちになった。
「ルカ君は……」
「はい?」
「どうして悪魔を恐れることなく戦えるの?」
傲慢の悪魔ルキフェル。
あれはすべてを邪悪な意思で塗り潰すかのような存在だった。
けれどルカ君は微塵も揺らがなかった。彼の真っ白な雪原が塗り潰されることはまったくなかった。
理由は様々にあるだろう。
すべての神聖術を会得した天才だから。すごい杖を持っているから。伝承を体現するといわれた選ばれし者だから。
けれど、少し考える素振りをした後、彼はそのどれでもない答えを口にした。
「信じてるから、です」
「信じてる……って?」
「セシルさんに聞いたかもしれませんけど、神聖術って世界を『神が観ている演劇』に見立てて、起承転結の奇跡を起こすものなんです」
「それの……何を信じてるの?」
「勧善懲悪、かな」
はにかむように言い、ルカ君は胸を張った。
「善きものは広まり、悪しきものは懲らしめられる。もしも本当にこの世界が物語で、善神が僕らを見守ってくれているのなら、勧善懲悪の法則が覆ることはありません。正義の神官は勝ち、悪しき悪魔たちは消滅します。僕はそれを信じてるんです」
彼は屈託なく笑み、それから気づかわしげにこちらを見つめた。
「今夜は怖い思いをさせてしまってすみませんでした。でももう二度とこんな目には遭わせません。安心して下さい。オリビアさんに取り憑いた悪魔は、僕が必ず祓います」
その眼差しは私を安心させようという使命感に満ちている。
少年の真っ直ぐな瞳を見ていて、ふいに――自分の間違いに気づいた。
細く、小さく、吐息をこぼす。
「そっか……。私はルカ君のことを守ってあげたいと思ってたけれど……それは笑っちゃうくらいおこがましいことだったみたい」
「オリビアさん?」
「ルカ君、キミは……」
ローブの切れ間から腕を出し、彼の手を握る。柔らかく、慈しむように。
「……守られるのではなく、守る側の人間だったんだね」
それは静かな尊敬を込めた言葉。
ランタンの灯かりがほのかに二人を照らしている。
少年は意味が分からず不思議そうな顔をし、私はそれで構わないと、目を細めて笑った。
ずっと世界の醜さに抗い続けた、オリビア・レイズ・ルドワール。
私にとって、この夜は――誰かに守ってもらえた、生まれて初めての夜になった。
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