第16話 光臨 ―そして神官は舞い降りた―
息が出来ない。
廃墟のようになった神殿の廊下で、私は悪魔に首を絞められ、高く掲げられている。
「『苦しいか? 苦しいだろう?』」
「あ……、か……っ」
「『くく、可哀想に。オリビア、我にはお前の人生を視ることができる。お前の日々は苦しみの連続だったな? 養護院では貧しさから常に腹を空かせていた。院長先生に隠れて、子供たちだけで酒場のゴミ箱を漁ったのも一度や二度ではない。お前が好きだったのはチーズ味のオニオンポテトだ。あれがただの腐ったジャガイモだと知ったのは、王宮に上がってからだったな? くく、惨めだ、あまりに惨めな女だよ、お前は』」
「なん、ですって……」
「『王宮に上がってからはさらに酷い。生き別れの家族との再会……と思いきや、父は無関心、母はすでに死に、兄弟姉妹たちはお前を王位継承の障害としてひたすら嫌悪した。感動の再会を期待した小娘の夢は見事、世界の醜さに砕かれたわけだ。おお、なんど惨めなオリビア! お前ほど愉快な道化も他におるまいよ!』」
「勝手な、ことを……っ」
怒りのあまり血が逆流するかと思った。
頭にき過ぎて、息苦しささえ忘れた。
目についたのはフックで壁に掛かっているランタン。気力を振り絞って手を伸ばし、取っ手部分を掴む。
「私の、人生の価値、は……」
「『ん?』」
「私が決めるの! 悪魔なんかに決めつけられてたまるもんですか!」
ランタンを悪魔の頭に叩きつけた。
ガラスが砕け、なかにあった霊石が落ちてくる。霊石には神官が神霊術を施しているとルカ君が言っていた。
続けざまに大声で命じる。
「光れ! 悪魔を退けて!」
「『なに!? く……っ!?』」
霊石が輝きを放ち、悪魔が苦悶の声を上げた。
闇のような両手が首から離れ、新鮮な空気が肺を満たしていく。
私は肩で息をし、それでも瓦礫を踏みしめて悪魔を一喝する。
「人生に苦難があるのは当然よ! それを乗り越えていくのが人間の強さだわ。惨めだなんて言ってほしくないわね。悪魔風情にどんな薄っぺらいことを言われようと、私は苦難を乗り越えてきた今の私を愛してる!」
悪魔は光を恐れるように後退さる。
「『く……っ、なんとしなやかで強靭な魂か。想定外だ、よもやこの我が返り討ちにされるとは……っ! ――とでも言うと思ったか?』」
「え!?」
ランタンの霊石がいきなり砕け散った。
それと同時に悪魔の体が泥のように溶け、辺りに闇の沼を作りだす。
その沼に触れた途端、私の足は闇へと沈み始めた。
「なっ!? 何これ……っ!?」
逃げようとしても、もがくほど足が絡め取られてしまう。
そして沼から浮かび上がるように悪魔が再び姿を現した。
「『霊石を使うというのは良い考えだった。だが所詮は松明替わりの道具よ。この程度の神聖術、我には毛ほども効かん。そもそも人間の神聖術など七大悪魔には通用せん』」
「そんな……っ」
「『さてお別れの時間だ、オリビア』」
悪魔の背後で沼の一部が大きく盛り上がり、形を成した。
現れたのは巨大な鎌。悪魔の頭上で、それはすでに大きく振り被られている。
「『これよりお前の首を刎ね、その魂をもらい受ける。覚悟はいいな?』」
「い、いいわけないでしょう!? 嫌っ、離して!」
大声で叫び、暴れようとする。
でも闇の泥は粘りつくように這い寄り、すでに私の下半身を覆っていた。逃げられない。万事休すだった。
……それでも諦めない。こんなにあちこち壊されてるんだから、大神官さんたちが気づいてくれるかもしれないもの……っ。
鋭利な鎌を睨みながら、必死に自分の心を奮い立たせる。
でも悪魔が何気ない口調で告げた。
「『援軍を期待しているようだな? だが助けはこないぞ』」
「え?」
「『ここはとうの昔に我の結界の中だ。たとえエルフだろうと侵入はまかりならん』」
「な……っ」
最後の希望が打ち砕かれた。必死に保とうとしていた心の均衡が崩れる。
鎌が風切り音を上げ、無慈悲に振り下ろされた。迫ってくる切っ先を呆然と見つめる。
そんな、私の人生はこんなところで終わりなの……?
世界が理不尽に溢れているのは知っている。それでも必死に抗ってきたつもりだった。どんな苦境だって意地と覚悟で覆せると信じてきた。
でもここが行き止まり。圧倒的な悪意によって、人生の幕が無理やり下ろされてしまう。走馬灯はなかった。代わりに小さなランプのように胸に灯ったのは、あの生真面目な男の子のこと。
「……ごめんね、ルカ君」
目前の刃を見つめながら懺悔のように呟く。
「私、キミを守ってあげられなかった……」
その瞬間だった。
突如、私と悪魔の間、何もない空間に稲妻のような亀裂が走った。
そこから杖の先端が現れ、眩い光を発する。光を受け、私の目前に迫っていた鎌が一瞬にして砕け散った。
「『なんだと……っ!?』」
悪魔の驚愕の声が響き、間髪を容れず亀裂から飛び出してきたのは――真っ白な雪のようなローブ姿。
杖は星のように輝き、すでに大きく振り被られている。
彼は大声で告げた。
「見つけたぞ、傲慢の悪魔ルキフェル! 今すぐオリビアさんから離れろ――ッ!」
流星のように光の尾をなびかせ、杖が一閃。その一撃は悪魔の顔面を直撃する。
「『ぐっ!? ああああああっ!?』」
悪魔は苦悶の叫びを上げ、廊下の先まで吹っ飛ばされた。同時、杖の輝きに浄化されるように、闇の泥も見る間に消失していく。
「お待たせしました、オリビアさん!」
「ルカ君……っ!?」
少年は音もなくふわりと降り立った。
純白のローブを宙になびかせ、悪魔の方を睨むと、己の存在を示すようにトンッと杖をつく。
「冒涜の化身め。光は常に世を照らす。悪魔の時間はここまでだ!」
現れた少年の名は、ルカ・グランドール。
それは今までの彼からは想像もつかないほど堂々とした姿だった。
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