第15話 約10分前―オリビア視点・悪魔が来たりて―

 洗面場の鏡が内側から砕かれ、悪魔が飛び出してきた。

 血に染まっていた髪は色が抜けたようなアッシュブロンドになり、体は闇のような黒一色。全身の輪郭は炎のように揺らめいていて、シャワーの鮮血のような赤いドレスをまとっている。


「『新たな宿主よ! さあ、悪夢の幕開けだ!』」


 両手から鋭い爪を伸ばし、身の毛もよだつような魔の手が伸びる。


「いやぁぁぁぁぁっ!」


 私の悲鳴が響き渡った。

 思わず屈み込むと、頬のすぐ横を爪が薙いだ。数本の髪がはらりと千切られ、浴室の壁がまるでバターを切るように抉られる。背筋が凍った。この爪に裂かれたら間違いなく命はない。


「……っ」

 洗面場のタオルを掴み、悪魔の横をすり抜けるようにして駆け出した。


「『ほう? 思いきりのよい動きだ。修羅場を知っている者の動きだ。よかろう、付き合ってやる。泣き叫びながら逃げるがいい。気を抜けば切り刻むぞ!?』」


 黒い炎のような爪が空中を一閃。ベッドが真っ二つに切り裂かれた。


「ひ……っ」


 間一髪、転がるように自室を飛び出した。

 濡れた体にタオルを巻きつけ、揺れる胸を押し込んで、半裸のまま廊下を駆ける。


「なんなの、一体……っ」

 自分を模したような姿のナニカ。突然、襲ってきたモノ。

 とても信じられないけど、その正体は当の本人が堂々と名乗っていた。


「あれが悪魔……っ。ルカ君の言ってた、私に取り憑いてたモノ……っ!」

「『そうだ。我は傲慢の悪魔ルキフェル。すべての悪魔を従える、七つの頂点。その堂々たる一角だ』」


 ずるり、と悪魔が部屋から這い出してきた。黒い体からは汚泥のように闇が溢れ、見る間に廊下のタイルを染めていく。まるで世界が寝食されていくような光景だった。


「『ああ、それにしても喜ばしい。宿主の体の外に出られたことなどいつ以来だろうか。ジーナよりさらに何代も前、おそらくは太古の西暦の時代以来だろう。感謝するぞ、今代の宿主よ。お前のおかげで我は久方ぶりの自由を得られた』」

「私のおかげ? まさか使い魔にしようとして失敗したせいで……っ!?」


 息を切らせながら、自分の失態を心から悔やむ。

 調理場で影から何か出たように感じた時、実際にあの悪魔が出ていたのだ。


 なんてことだろう。この一週間、ルカ君が何度も危険性を説明してくれたのに。

 見たことがないという理由だけで、悪魔の存在を軽んじていた。

 エルフだって実在したんだから、悪魔についてももっと深く考えなければいけなかったのに……っ。


「『さあ、我が愚かなる宿主よ! 恐怖し、慄き、絶望せよ! 輝きを失くしたその魂を喰らった時、我は完全なる実体を得られるだろう。そして奴ら奴ら・・の奇跡さえ我が物となるのだ!』」


 悪魔の身から闇が噴き出し、暴風となって吹き荒れた。床のタイルが瞬く間に剥ぎ取られ、破壊の嵐が迫ってくる。まるで山肌を削る土砂のような勢いだ。


「――っ!? 嘘でしょう……っ!?」


 恐怖で喉が引きつった。足ももつれそうになってしまう。

 でも廊下の先が左右に分かれているのが見えた。一か八か、右側に飛び込む。


 直後、暴風が廊下の突き当りに直撃し、周囲をズタズタに引き裂いた。

 粉塵とタイルの欠片が舞い、天井を支える柱にも亀裂が生まれる。

 たとえ騎士団の騎馬隊が駆け抜けても、これほどの荒れ地にはならないだろう。

 暴風による破壊が収まっても、多くの粉塵が舞っていた。まるで霧でも出ているかのように視界は悪い。


 瓦礫の山を踏み締め、闊歩する音が響く。悪魔の足音だった。


「『ああ、なんたることだ。久方ぶりでついやり過ぎてしまったよ。くく、そうだ、世界とはこうも脆いものだったな。宿主よ、死んだか? 死んでしまったか?』」


 悪魔は粉塵の霧のなかをゆっくりと進む。

 私はほんの少し離れた柱の裏側で息を潜めていた。廊下が破壊される寸前で辛くも逃げ込めたから。

 わずかな吐息もこぼさないように自分の口を両手で塞でいると、悪魔が徐々に近づいてくる。


「『感じる、感じるぞ。宿主よ、お前はまだ死んでいない。素晴らしい。我が魔導の嵐を乗り切ったか。お前はまだ生きていて、そして……私のとても近くにいるな?』」


 確信を持った言葉に体が震えた。

 悪魔は今、ちょうど柱の反対側にいる。ぎゅっと目を瞑り、懇願のように祈る。

 お願い、このまま通り過ぎて……っ。


 悪魔は歩み続ける。牛歩のようにゆっくりと、ゆっくりと、まるで焦らすように。


「『宿主よ、まだお前の名を訊いていなかったな。いや言わずとも構わん。我とお前は繋がっている。答えは我が胸中に自然と浮かび上がる。お前の名は……オリビア。そう、オリビアだ。良い名だ。血と悲劇がよく似合う名だ』」


 勝手な言い草だが、文句を言うことはできない。我慢だ。今はひたすら我慢するしかない。手のひらの下で唇を噛み、呼吸すら堪える。そして。


「『オリビアよ、どこにいる? 我が宿主……オリビアよ……』」


 悪魔が通り過ぎていった。

 すぐそばで聞こえていた声が徐々に遠のいていく。

 その場に座り込んでしまいそうなほど安堵した。私は掠れた声で呟く。


「……助かった」

「『そこにいたかァ!』」

「きゃあ!?」


 通り過ぎたのとは逆の方向から突然、悪魔が顔を出した。

 頬が裂けるような笑みで顔を寄せ、闇のような手が私の首を締め上げる。


「あ……、か……っ!?」


 息が出来ない。私は首を絞められたまま、高く掲げられていく。

 ほくそ笑むような悪魔の声が耳に響いた。


「『言っただろう? 我とお前は繋がっていると。どこに隠れようが無駄だ。最初からお前の位置など分かっていたよ』」

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