第14話 約20分前―オリビア視点・鮮血のバスタイム―

 私は調理場でネオンの夜食を作っていた。

 すると、唐突に背後で。

 ガタンッ! 

 と音が響いた。


「わ、なに?」


 私は驚いて振り向く。そこには――音を発するような物は何もなかった。


 冷蔵箱の戸はちゃんとしまっているし、竈にはそもそも火を入れていない。壁にフック掛けしてあるヘラや調理スプーンが落ちた様子もなく、もちろん調理場には私以外、誰もいなかった。


「なんの音だったんだろう……?」


 不思議に思い、眉を寄せる。その直後、今度は自分の手元から。

 ダンッ! とさらに強い音が響いた。


「え、また? ……きゃあ!?」


 背後を向いていた体を戻し、直後に悲鳴を上げた。

 頭上の戸棚が勝手に開き、調味料の小瓶が降ってきていた。それだけならばまだいい。

 私を驚かせたのは、小瓶と共に――包丁が降ってきたこと。

 

 鋭利な刃は垂直に落ちてきて、手元のサンドウィッチに突き刺さった。

 ぶぢゅっ、と汚い音を立て、具材のトマトが噴き出し、ドレスの胸元が汁で真っ赤に染まった。


 驚き過ぎて、しばらく動けなかった。

 包丁があと少し横にズレていれば、刺さっていたのはサンドウィッチではなく、手のひらだったろう。胸に掛かったのもトマトの汁ではなく、真っ赤な血になっていたはずだ。


「なんで戸棚が勝手に……小瓶が溢れるような仕舞い方はしてないはずだし。や、そもそも……っ」


 包丁は足元の戸棚にしまったはずだ。他ならぬ私自身が先ほど片付けたのだから。

 背筋に変な汗が流れた。

 率直に、気味が悪い。


「……そうだ、服を着替えないと。トマトの汁でベタベタだし……」


 現実逃避のように呟き、一歩後退る。

 包丁の刺さったサンドウィッチはまだ調理台の上にあるけど、触りたいとは思えなかった。


「……あとで片付ければいいよね」


 目を背け、足早に調理場を後にした。

 廊下に出ると、なぜかいつもより薄暗い気がした。壁に据え付けられたランタンはちゃんと点いている。なのに、じっとりとした薄暗さが漂っていた。


 神殿の廊下は白いタイルで出来ていて、等間隔に丸い柱が続いている。その陰に何かが潜んでいるような気がした。せせら笑うような視線でこちらを見ている気がする。もちろん錯覚だ。柱の陰にどんなものがいるっていうんだろう。何もいるはずない。


「……疲れてるのかな。どうしちゃったんだろ、私。なんか寒気もするし……」


 歩きながら腕をさする。寒い。それに妙に心細い。

 ネオンが能天気な顔で出てきてくれないだろうか。セシルでもいい。ルカ君は寝ているだろうから、二人のどっちかが廊下の向こうから歩いてきてくれないかな。そしたら明日の朝食は大奮発してあげるのに。


 でもそんな希望は叶うことなく、自室に着いた。

 王宮の王女の間よりは狭いけど、養護院の頃の共同部屋よりは広い、両者の中間のような部屋。そこには神殿が用意してくれた家具があって、王宮から持ってきた大鏡なども置いてある。

 汚れたドレスを落ち着かない気分で脱ぐと、下着まで汁で濡れていた。


「……湯浴みした方がいいかな」


 洗濯物を籠に入れ、洗面場へ向かう。ルカ君の部屋にはないらしいけど、聖女たちの部屋にはそれぞれ小さな浴室が備え付けられている。

 湯船はないものの、代わりに珍しい棒状の道具がある。小さな穴が空いていて、そこから雨のように水が降り注ぎ、水浴びが出来る仕組みだった。


 神殿が復元した、大陸歴以前の生活用具で『シャワー』というらしい。

 神聖術が施されていて、水をお湯に変えることもできる。

 草木染めのタオルを洗面場に置き、仕切りのカーテンを引いて、シャワーを出す。使い方はランタンと同じで、ただ命じればいい。


「……お湯を出して」


 すぐに温かい雨が降り注ぎ、私の体を濡らした。

 肌が水滴を弾き、胸の谷間に滝が生まれる。滝は腰へと続き、お尻の曲線を通って、やがてふくらはぎへ流れた。

 そうしてしばらくシャワーを浴び続けたけど……なぜか体がまったく温まらない。むしろ寒気は強くなっていく一方だった。それに。


 ……視線を感じる。


 やっぱり誰かに見られている気がした。廊下の時よりはっきりと感じる。

 シャワーは個室で、しかもカーテンで仕切っている。誰かに見られているはずなんてないのに……嫌悪感が止まらない。


「なんなの、一体……」

 自然に体が震えだし、自分をかき抱く。


 するとその時。



 ドンッ!



 またあの音だ。


「誰っ!? 誰かいるの!?」

 カーテンを勢いよく開けた。でも誰もいない。胸を手で隠し、辺りを見回してみるけど、自分で置いたタオルと籠、あとは洗面場の鏡があるだけだ。


「なんなの、さっきから。確かに音がしたのに……っ」

 強い焦燥感が胸を突き上げていた。もう言い切れる。これは気のせいなんかじゃない。私のまわりに何かおかしなことが起きている。


 ぬるりとしたシャワーを浴びたまま、唇を噛む。

 直後、違和感に気づいた。


 ……え、なに? このネバつくような感触……っ。


 降り注ぐ湯に異変が起きていた。先ほどまでは滑るように肌の上を流れていたのに、今は体にまとわりつくような感覚がある。

 反射的に自分の体を見下ろした。

 赤い。

 お湯が真っ赤に染まっている。


「なっ、なんで!?」

 驚いて頭上を見上げ、絶句した。シャワーから出ているものが変わっていた。お湯ではない。ツンと鼻を突くようなこの鉄の匂いは――血液だ。



 シャワーから何者かの血液が噴き出していた。



「きゃあああああああああっ!?」


 悲鳴が浴室に木霊する。シャワーからの鮮血は止まらない。ワケが分からなかった。目の前の出来事が理解できず、動くこともできない。

 胸だけが悲鳴に合わせて激しく揺れ、林檎のように赤く染まっていく。私の全身が謎の鮮血に彩られていく。


 そして、声が聞こえてきた。闇の底から轟くような歪な声が。


「『いくせいそう……いくせいそう……幾星霜……』」

「え? なに!?」

「『幾星霜、あの炎の夜から経ったことか……』」


 まるで世界のすべてを呪うような声だった。

 私は震え上がり、忙しなく周囲を見回す。そして声の出所に気づいた。


 洗面場の鏡。


 そこに映った私があろうことか――こっちを見て嗤っていた・・・・・・・・・・・

 ブロンドは血に染まり、目は眼窩すべてが赤一色で、口角が耳元まで裂けている。

 そんな私ではない私が鏡のなかから話しかけてきた。


「『……娘、答えよ。疾く答えよ。今は大陸歴にして何年となる?』」

「え? え?」

「『答えよ』」

「た……大陸歴、1362年だけど……」

「『ふはっ』」


 鏡の私が息をこぼした。


「『ふはははははっ! そうかそうか、ジーナの時代からまだ100年程度か! こんなに早くまた我が発生するとは。善神め、よほど弱体化していると見える。くく、だからこそ奴ら・・を降ろしたということだろうがな。しかし幾度試そうが同じことよ。何度でもジーナの二の舞にしてくれる!』」


 意味が分からない。ジーナって誰? 善神が弱体? 奴らを降ろしたってなんのこと?

 様々な疑問が浮かび、一言となってこぼれる。


「なんなの、あなたは……」

「『なんなの、だと?』」


 問いかけてしまってから、自分がとんでもない失敗を冒したことが分かった。

 鏡の向こうの顔に強い愉悦が浮かんだから。

 この顔は知っている。城下町にもあった。王宮にもあった。悪漢が弱者をなぶろうとする時の顔だ。


「『我が何者か、お前はすでに知っているはずだ。我は――』」

 その声は虫をもごうとする子供のように無邪気で、冷たく、無慈悲に響いた。



「『――悪魔さ』」



 ダアンッ! と音が響いた。

 今までで最も大きい音。何度も聞いたその音は、おそらくは世界の境界のような大切なものが壊される音だったのだろう。

 その証拠に鏡が内側から砕かれて――悪魔が飛び出してきた。


「いやぁぁぁぁぁっ!」


 身の毛もよだつような魔の手が伸び、私の悲鳴が響き渡る。

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