疑惑
*****
一週間ほど前のことだ。
契約書に関する最終確認で、ミレディアが侍女とともに城を訪れた。彼女が帰ったすぐ後で、俺、クラウスは不安になる。
――エルゼとその取り巻きが、口だけでなく手を出したとしたら?
無意識にしろ何にしろ、先日彼女の髪に土がついていた。真面目なディアが汚れた姿で訪れるのは、考えてみればおかしい。
胸騒ぎがして走り出す。彼女はまだ、そう遠くには行っていないはずだ。
外に出て、ディアを探した。彼女は茶葉を抱えた侍女と話しながら、楽しそうに歩いている。杞憂で良かった。ホッとため息をついたところ、俺は目の端に動く物を捉える……上の窓に人影が?
城の女官が壺のような物を抱えている。しかも、真下に狙いを定めて。瞬間的に理解した俺は、彼女に向かって駆け出した。
「ディアッ」
大声で叫び、彼女に覆い被さる。柔らかく細い身体は、腕の中にすっぽり収まって。
直後に落とされた物が、頬を掠め下に当たって砕け散る。俺の声と割れる大きな音に驚いた兵達が、慌てて駆け付けた。
「大丈夫か、怪我は!」
ディアの両腕を掴み、彼女の顔を覗き込む。前髪で表情は見えないが、恐怖で震えているというわけでもなさそうだ。少しの怪我も容認できず、俺は彼女の全身に素早く目を走らせた。ところが彼女は自分より、俺の心配をする。
「私は平気です。でも、クラウス様が……」
伸ばされた手から、先ほど掠った頬だと気付いた。触った白い手袋に赤い血が滲む。
「こんなものはかすり傷だ。それより、すぐに移動した方がいい」
この位置から城を見上げる。犯人は三階から、明らかに彼女を狙っていた。頭に当たり、再び彼女を失えば――再び? 俺は自分で思っているより、疲れているのだろうか? 困ったように髪をかき上げる。
「どういうこと?」
「すまない、こちらの不手際だ。馬車まで送ろう」
周りに控える兵士に、調査するよう指示を出す。もちろん、三階の窓を重点的に捜索するように。ディアを危険な目に遭わせるわけにはいかない。俺のせいで、傷つくことがあってからでは遅いのだ。
しばらくして、アウロスが警備担当の者を伴い執務室を訪れた。俺は早速報告を聞くことにする。
「残された破片から察するに、水差しかと」
「誰だか判明したのか?」
「いえ、それがまだ……。叱責を恐れたのか、出てきません」
「外の兵は直前まで何をしていた?」
「ちょうど女官から差し入れされていたらしく、その場を外していたとの証言が」
「職務怠慢だ。後からここに来るように」
「かしこまりました。伝えておきます」
「やれやれ。女性に惑わされるなんて、考えものだね?」
アウロス、お前がそれを言うか?
退室を促すため、出かかった言葉をかろうじて飲み込む。
「差し入れたという女官を洗い出せ。引き続き、水差しを落とした者の調査も」
「はっ」
敬礼すると、兵は出て行く。
扉が閉まった直後、アウロスが話しかけてきた。
「それで、クラウスはどう思う?」
「どうって……お前もエルゼの仕業だと?」
「まあね。これからは注意して見ておくから、酷いことにはならないと思うけど」
「見ておく、とは? 商談はもうすぐ終わる。時期が悪いし距離を置く」
エルゼに常識は通じない。俺の周りの女性を敵視し、全て排除しようとする。彼女に追い回されるのも
「普通はそうだけど、離れ難いだろう?」
「そんな理由で、ディアを危険に晒すことはできない」
「へえ? 引き留めるかと思っていたのに」
「危険を退ける方が先だろう」
「そのためにも、協力してもらう方がいいんだけど?」
確かにディアを囮にすれば、エルゼは簡単に尻尾を出しそうだ。けれどそのために、ディアを利用したくない。以前言った危険とは、俺自身のことを指していたのに……
「ダメだ。ただでさえ男性が怖いと言っていた。こちらの都合で、さらに怖い思いをさせるわけにはいかない」
「そうかな? 僕のことは怖がっていないようだよ?」
「たとえそうでも、お前の好きにさせてたまるか。他にも打つ手はあるはずだ」
「女嫌いが聞いて呆れるね?」
「何とでも言え。だが、公爵の動きが活発になってきた今、手元には置けない」
「親子揃って暗躍しているからね?」
「過ぎる野心は身を滅ぼす。今度こそ容赦はしない」
「おお、怖。じゃあ、ディアとは解決するまでお別れということで」
「そうだ。絶対に手を出すなよ?」
アウロスは無言で肩を
余計なことを言わずにいればいいが……
そして今日、何も知らないディアが城を訪れた。余程怖かったのか、今回は少し身構えているような気がする。
「ディア、いつにも増して早いんだな。兄上と一緒だからか?」
二人とも美形でとてもよく似ている。いや、兄よりも妹の方が数倍麗しい。容姿だけでなく内面の美しさが
彼女の優しさに触れ、彼女を知るうち離れ難くなっていた。アウロスの言ったことは真実だ。利権の絡む争いとエルゼの邪魔さえなければ、このままずっと一緒にいたかった。
「それで、ディアはこれからどうするつもりだ?」
覚悟したとはいえ、別れはつらい。王都での暮らしに味をしめ、どこかの貴族に嫁ぐと言い出したら最悪だ。俺は何気ないフリで、話を向ける。
「ミレディアは、領地に帰します。妹には田舎の暮らしの方が向いているのかと」
彼女の兄が代わって答えた。ディアは開きかけた小さな唇を黙って閉じる。緑の瞳がどことなく寂しそうだ。もちろんそれは俺の願望だと、わかっているけれど。
「そうか、その方がいいかもしれないな」
ヨルクの言葉に
「気が向いたらまた、遊びにおいでよ」
俺とアウロスの言葉に、ディアはきょとんとしている。迫っておきながらどうして? と考えているのかもしれない。本気で迫れば、こんなものでは済まされないのだが……
表情を隠すため、俺は手元のカップを持ち上げた。彼女の好きな紅茶は、俺も一番気に入っている。素朴なようで繊細で、どこか懐かしい。これからは飲む度に、彼女のことを思い出しそうだ。あるだけの茶葉を渡したら、喜んでくれるだろうか?
別れの挨拶後、彼女の兄を隣の部屋へ。内密に話があると言い、妹思いの彼に現状を伝えることにする。エルゼのこと、公爵のこと、王太子の座を巡り城内が二分されていること。くれぐれもディアを城に近づけないように、頼んでおいた。
「なぜ公爵家が、今後も妹を目の敵にするとお考えに?」
「それは……」
ヨルクが詳しく知りたがったので、俺とアウロスが彼女に惹かれていることを打ち明けた。
すると、危険を伝えた時よりも彼の顔が険しくなっていく。賢明にも口を閉じていたが、不服であることは間違いないようだ。彼はきっと、俺達から妹を必死に遠ざけてくれるだろう。
元の部屋に戻ると、アウロスがディアの手を握っていた。それだけで、胸の内に黒い感情が渦巻いてしまう。気づいた弟は、ヨルクを連れて先に部屋を出た。残された俺は、ディアの緑色の瞳を見つめて別れの言葉を探す。怖がらせないために、本人には何も伝えない方がいい。
「……ディア、元気で。さようなら」
月並みの言葉だが、想いを込めた。それだけでは足りず、ずっと触れたかった彼女の白い頬に手を伸ばす。ディアが怖がり身を引く前に……小さな額にサッとキスをする。
本当は頬や唇に触れたかったと告げたら、君はなんて言うだろう? しばしの別れが残念だと、正直に口にしたら?
「ええっと、クラウス殿下もお元気で」
違う、敬称は要らない。
「クラウスだ。言っただろう?」
「さようなら、クラウス様」
彼女は
「何だったんだ、今のは。そこまで強く惹かれていたとは思わなかったな」
頭を振り、掴みどころのない何かを追い出した。
これ以上、態度に出してはいけない。先ほど既に、エルゼが接触していたという。念のためディアが馬車に乗るまで、しっかり護衛を付けている。
「さようなら、か。永遠の別れにならねばいいが……」
俺は執務室に向かい、対策を練ることにした。
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